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[コメント] 小さき勇者たち 〜GAMERA〜(2006/日)

色々書いてますけど、要するにガメラの“円盤飛び”が観られたのが嬉しいと言うことで。(とにかく長いのでご注意を)
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 久々の特撮ブーム。こういう流行ものには特に敏感な角川が、今度はガメラを復活させるという(角川は他にも『大魔神』やるとか『G×G』やるとか盛んにアドバルーンを飛ばしていたが、結局企画として最も無難な作品に落ち着いたらしい)。

 こっちとしては「やっぱ角川はやると思っていた」とか、割と醒めた目で見てはいたものの、やっぱり7年ぶりのガメラの復活である。勿論楽しみにはしていた。

 それで本作は監督が田崎竜太。この人は東映ヒーローものの監督として頭角を現した監督だが、確か巨大怪獣ものは初めての監督。特撮慣れした監督がどんな映像を見せてくれるか?

 …冒頭ははっきり言ってきつい。

 ありがちな構図と、怪獣側はともかく人間側のチープな演出部分。まるでテレビ特撮を見ているかのようだ(いかにも焼くために急ごしらえで作ったとしか思えないぺらぺらの小屋ひとつ焼いてパニックを演出しようなど、手抜きも甚だしい)。ガメラの自爆だって、あれが人間を救うためだったという明確な意思は見えないのも困ったもの。この状態では、たまたま自爆したところに人間がいなかった。と言う程度の認識だけしか感じられず。細かく言えば『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999)で失ったはずの右手は?などと、頭の中では無茶苦茶なツッコミが入りまくる(直後に時間の流れを見て、これは金子ガメラではなく、昭和ガメラの方だと認識して、人間がガメラに思い入れを持っていたことを納得したが)。

 それに、全体を通してみても特に怪獣同士の戦いに迫力が感じられないし、子供の挿入もいかにもとってつけたような感じだ。それに何よりガメラが妙に脱力系の顔してる。ジーダスの存在もとってつけ。

 …それは分かってるんだ。

 と言うか、私の頭のどこかではこの作品を徹底的にこき下ろせという声が聞こえてくるし、伊達に特撮好きを自認してるばかりじゃない。仮にそうしようと思ったらどれだけでも細かいツッコミを入れることだって出来る。

 しかし、この作品に関しては、悪く言いたくない。

 実は、この作品については、大変感心できる部分が多々含まれているのである。

 と、言うことで、以降は妄想爆発で書かせていただく。

 さて、『ゴジラ』と『ガメラ』の違いとは何だろうか?

 特撮好きな人間にこれを聞いたら、いくらでも答えが返ってくるだろうが、一つの極論を言わせてもらえれば、「物語の半分以上に怪獣が出てこないと怒られるのが『ゴジラ』であり、1/3以下で済ませても納得させられるのが『ガメラ』である」と言ってしまおう。

 これを言い直せば、「主人公が怪獣であるのが『ゴジラ』であり、主人公が人間であるのが『ガメラ』である」。としても良いだろう。

 事実、ゴジラは人間側から見る限り、何を考えているのか分からずただ破壊をもたらす存在。それ故にその描写を中心としないと、描ききれない部分がどうしても出てくる。結果として怪獣描写は自然と増えていかざるを得ない。それに対しガメラは明確に“人間(特に子供)の味方”という前提があるため、その意志が明確。故に最後に登場して子供を救うと言う描写があれば最低限体裁を保つことが出来る(平成版は多少意味合いが違っているけど)。結果として人間ドラマを中心に持って行くことが可能なのだ(ゴジラ側でも昭和ゴジラの後半部分『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(1972)や『ゴジラ対メガロ』(1973)辺りはゴジラがガメラ化したお陰で話は成り立っている)。  その意味で言うなら、本作はよくガメラの特性を掴んだ作品である。ガメラは確かに話の中心ではあるが、それにまつわる人間の物語の方に力が入っており、それはそれでしっかり物語は作られているのだ。ガメラ無しに話は成り立たないが、登場時間は最低限に抑えることが出来た。この作り方は『ガメラ』として考えるならば、決して間違ってはいない。むしろちゃんとそれを土台としていることに感心した。

 それにこれまでにも何度も書いたことだが、怪獣映画を作る際、重要なのは目線をどうするか。と言う問題がある。

 怪獣と人間はサイズがまるで違う。これが人間と怪獣が交流を持つ事自体大変難しいものにしている。通常サイズの怪獣の場合、基本的に人間は見上げることしかできないので、どうしてもアングルは決まってしまうし、上を向きっぱなしだと、人間と怪獣の間のドラマは存在しにくい。『ゴジラ』(1954)のような加害者と被害者の関係ばかりになりがち。ここに同一目線を作ろうとするなら新しい怪獣を投入するしか無い訳だ。これを防ぐため、これまでにも様々なアイディアが盛り込まれていた。例えばそれは人間と巨大怪獣をつなぐ存在を作った『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967)であったり、怪獣の中に人間を入れてしまうと言う『ガメラ対大魔獣ジャイガー』とか『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999)とか『ゴジラ×メカゴジラ』(2002)であり、人間を徹底して空中から描くというゴジラの逆襲(1955)とかであったり。

 それに対し本作では(TVシリーズではいくつかあるにせよ)目新しい方法を投入。それが怪獣を育てるという過程なのである。最初の内は、人間の側が怪獣を“見下げる”という面白い視点で展開する。そして見下げていた視線が、ガメラの成長と共にやがて同一目線へとなり、そして見上げる視線へと変わっていく。この過程を丁寧に描いてくれていた。これは人間とガメラの関係だけでない。ガメラとジーダスの戦いにも目線の工程がふんだんに取られていた。ミニサイズガメラは自然ジーダスに対して目線を上げざるを得ないが(前半の橋上での攻防は、その意味では大変上手い演出だった)、やがて同一サイズとなって同じ目線となり、最後に飛ぶことによって、目線を下にすることが出来た。本作を観る機会があるなら、是非その目線の変遷に注意してもらいたい。色々面白いことが分かってくると思う。

 …と、色々理屈は付けたものの、しかし実際の話を言えば、ガメラがあの“円盤飛び”を披露してくれた。これだけで実は凄く嬉しい気持ちになった。と言うのが本音だったりする。あのシーン見せてくれた瞬間、もう悪いことを言う気が失せた。

 もう一つ好きな理由を挙げさせてもらうなら、20年近くファンをやってるZABADAKの元ボーカル上野洋子が音楽を担当していると言う事実。やっぱり耳馴染みの良い音楽を聴いてるのは、これはこれで嬉しいものだ。

(評価:★4)

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