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[コメント] 新仁義なき戦い 組長最後の日(1976/日)

任侠映画から実録やくざ映画への変遷の最後を飾る作品。文字通り本作のラストの「現実的過ぎるリアル」が終止符を打った。事実、アノ若者を描いて以降、東映は「男」ではなく『極妻』で「女」しか描けなくなるようになる。
sawa:38

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







本作では「任侠道」は存在しない。「義理」も存在しない。親分を殺された菅原文太が敵対組織の中からランダムに選んだ藤岡琢也を狙ったのは「復讐」のはけ口であり、「任侠道」ではない。さらに敵対組織トップの小沢栄太郎を狙うに至っては、行き場の無くなった男の破滅型行為にしか過ぎない。

事実、本作には「杯」「兄弟分」「親と子」「筋道」といったかつてのキーワードが一言も出てこない。たったの一言も・・である。

本作で唯一、従来型の「男」を引き摺っている感のある菅原文太でさえこのような感じで、独り破滅へのカタルシスに酔っているぐらいなのである。

そして極めつけがラストの名も知れぬ若者の乱入であろう。パトカーを飛び越えた若者は、カタルシスに酔う菅原文太を有無を言わせずに刺す。「仁義」を切る事もなく「大義」もなく・・・そして叫ぶ。「俺がやった!俺がやった!」警官隊に担がれながら叫ぶ若者に対し、取り囲んだヤクザ衆が拍手をしながら喝采を送る。警官隊の封鎖線の向こうからヤクザ衆が喝采を送るという異常なラスト。これが「リアル」でなく何なのだろう。

このあまりの「リアル」さは「実録」と銘打った本シリーズ中でさえ異色であり、「実録」をも越えてしまったのだ。このシーンで東映の実録路線は終止符を打った。アノ若者は「男」ではなく、喝采を送った者たちも「男」ではない。・・・・・終わりである。

そして東映は「男」ではなく、『極道の妻たち』で「女」を描かざるを得なくなったのだろうか。

(評価:★4)

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