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[コメント] 復讐するは我にあり(1979/日)

Vengeance is mine, saith the Lord.
Orpheus

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







聖書から引用した題名の通り、切支丹家族から生まれた殺人鬼を描いた本作において、信者ではない一般の観客に起きたことを提示するために、犯人・榎津巌の心理の掘り下げを捨てて連続殺人事件の実録的な描写へ注力した制作側の意図は理解できる(新聞記事のような原作小説の形態をそのまま踏襲しただけかもしれないが)。実際に殺人の行われた旅館で撮影されたという、今では考えられないような再現性への拘りからもその姿勢はうかがえる。主人公に多くを語らせずにその行動を中心に描くという手法は、要するに最初から犯人を「異物」として扱い、理解や共感よりも人間そのものの恐怖を描くことを優先させたということだろう(原作小説では逮捕後に巌が少しずつ態度を軟化させていき、神へ委ねるに至るまでの変化を描いているが、映画では割愛された)。

本作で最も残念なことは「復讐する我=裁きを行う神」の視点を意識していたはずの俯瞰の絵づくりが悉く作り手の通俗的な視点(神の視点どころか、むしろ単なる覗き見に近い)を感じさせる点にある。自我を離れて裁きは神に委ねるべきという題材にもかかわらず、金や肉欲へ執着する人物描写を好む監督の嗜好が前面に出て、神に禁じられた行為(殺すなかれ、犯すなかれ、騙すなかれ、盗むなかれ)を親への当てつけで繰り返す男として主人公像を矮小化している。特に遺骨を空へ撒く場面は、俺の関心はここにはないと監督が開き直っているかのような稚拙な演出である。死刑の確定した獄中で、巌は祖母から教わった隠れキリシタンのオラショの歌を心の拠り所としたという。信仰へ逃避して我が子の暴走を止められなかった弱き父親や一族の物語こそ、表現者が想像力を膨らませて描くべき要点ではなかったか? 

それでも本作が成功を収めたのは、最終的な配役の妙にあったと思う。当初、監督は渥美清を主人公役に考えていたが拒否され、代わりに起用した緒形拳が見事にはまった。本作における緒形の板についた詐欺師ぶりは鑑賞に値する。倍賞美津子と小川真由美の成熟した色香、三國連太郎の抑圧された野獣性、清川虹子の達観など、他の配役も適材適所であり、演技面は総じて好ましい。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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