[コメント] 瞳をとじて(2023/スペイン)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
以下、とりとめのない雑感。
冒頭の館のシーン、トリストレロワのところから魅入られて、演劇の世界のような劇中劇がそのまま続いて映画1本分あっても全然いいと思った。
ロワ(仏語で王様のこと)の帽子のことを、ベケットの『勝負の終わり』の主人公ハムの帽子だと書いたイギリスのジャーナリストがいた。『勝負の終わり』の原題Fin de partie/Endgame はチェス用語からきていて、チェスの王様のコマが関係する映画だったから、その線は正しそうだ。私は後半の、フリオの小屋の前の一本の木をみて、ベケットのゴドーを思った。エリセはそういうところで奇をを衒う人ではないからきっとそうだろうと思ってみていた。
たまたま去年ボルヘスの『伝奇集』を再読する機会があった。トリストレロワ(これはスペイン語ではなくてフランス語なので発音はトリスト「ル」ロワなのだけどスペイン人は「ル」と言ってるつもりでも「レ」と言ってしまうのだろう。「ク」が「ケ」になるのと同様に)が出てくる「死とコンパス」は、ロブ=グリエが撮ったら面白い映画になりそうだと勝手に考えていた。
劇中劇と知らずに見ていた話が、大きく展開しそうなところで画面が静止し、そこにナレーションが入る。あれはエリセの声だったと思う。少なくともミゲルではなかったし、フリオであるはずがない。
そこから唐突に現代劇が始まる。ミゲルのくたびれ具合がいい感じだ。生活の様子が途中でわかるが、さすがにエリセはこんな暮らしはしていないだろうと思った。
友人マックスは映画の妖精さん。全ての会話が映画の話で成り立つタイプだ。目がエリせに似ていた。ミゲルの身の上話も色々説明してくれる。
アナと落ち合う場所はプラド美術館のカフェだった。欧州でこまったら美術館のカフェに行っていた(逃げ込んでいた?)人間として嬉しかった。プラド美術館にはゴヤのとんでもないコレクションがあって、絵画が好きな人に最もおすすめしたい美術館でもある。でも映画では、毎日そこで働いていると退屈な日常になってしまうのだというそういうはなし。
テレビを持たないミゲルが入る場末のカフェもいい感じだった。おしゃれでもなんでもない、近所のおじさんたちが朝コーヒーを、夜ビールを飲みにくるただのローカルなカフェ。
ミゲルが出た番組のテレビ放映後から話が急に動き出す。飽きさせない作りが新鮮だ。小道具の使い方が細かくて、この映画2、3度は見たいなと思わせる。私は日比谷と渋谷で1度ずつ見た。日本でブルーレイが出ることを祈ろう。
リュミエールとかムルナウとかホークスとかのことは省略したかったけどやっぱり一言。ライフルとポニーの歌は私も以前家でギターを弾いて歌っていたので、ここでもう自分自身が映画と一体化した気持ちに。
テレビどころか余計なものを何も持たないミゲルの様子を色々見せるのも面白かった。移動はバスで、過去のものは全て倉庫で、今食べるものと寝る場所があればいいという暮らし。フリオもフリオでそういう状態だった。
バスでミゲルの家に戻る時に映るビニールハウスの群れは視覚的なインパクトがあった。
現代劇の背景にリアリティがある。物語にサスペンスがある。映画愛に溢れた細部がある。アナがいる。エリセが映画を撮っている。全部が嬉しいことだった。
80代で急にこんなふうに隅々まで曇りのない映画が撮れるものなのか。もしかすると歳をとったことでやっと、まわりのいろんな人の力を借りながら作品を作ることに抵抗がなくなったのかもしれない、と思った。それに、今の年齢でこれだけできたのなら、もう一本ぐらい期待できる時間は残されているのかもしれないとも。
そういえば、と、2009年に5週間ほどスペインに滞在していた時に出会い、今も手元にあるエリセの『La promesa de Shanghai』という書籍のことを思い出し、引っ張り出した。撮れなかった映画の脚本であることはわかっていたが、この映画と何か関係がありそうだということに気がついた。これを買った時には、この本を読むためにスペイン語を学ばねばならないと思っていたのだけれど実行できずにいた。後から後悔しないために、今その時がきたということにして、3週間ほど前からスペイン語の初歩をついに独学で学び始めた。
(2024年2月鑑賞)
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