コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 河(1951/米=仏=インド)

河のほとりから階段をおりて河に入る。ほとりに佇むことは許されない。片足を失った退役兵にも、家族を失った姉妹たちにも河に入るべきときを自ら考え自ら実行すべきときが確実に訪れる。「受け入れる」ことの大切さが圧倒的な画力で静謐に主張された作品。
ジェリー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







欧米からの諸物、諸習慣をあまた受け入れながらも決して自らを失わないインドがよく描きこまれていた。この異象の丹念な描写がなければ、インドという風土の持つ絶対的な感化力に対する納得感は生まれなかったであろうし、観客がこの感化力を受け入れなければ主題の了解も不可能である。作品世界の目に見えぬ根底をどのようにして可視化するかについて腐心したジャン・ルノワールの採った戦略は、インドという仕掛け抜きには考えられなかったわけだ。主題と舞台設定の類まれな豊かな融合はジャン・ルノワールの多くの作品に見られる特徴だ。それにしても、こんなに河の好きな作家も珍しい。

メラニーという米印混血の娘が欧州から戻ってくる。メラニーは欧風のドレスを捨て、改めてサリーを着用することを家族に宣言する。そのあとに、あの麗しいダンスのシーンがやってくる。インドという巨大な文化的大伽藍の最深奥の帳が開かれる瞬間に身震いをする思いをした。この身震いがなければ、後のストーリー展開についていくことができなくなるだけに、ダンスシーンの描写はとても重要なのだが、これが素晴らしい。固定のキャメラがストイックに娘のダンスの一挙一動を撮る。ワンカットで撮る!手や顔のアップも別アングルからの補助カットも何もない、簡素この上ないショット。ストーリーの流れが断ち切られることを恐れずに屹立することをやめない特異点としてこの映画の中に存在する。私はこのシーンを見ながら、見ることを強いられているような被虐的に甘美な思いをした。この重要なシーンが二番目の娘の架空の物語として登場するのだが、この娘がインドを受容した巫女になりうる可能性を持っていることを示していると思う。

悠々とした前半部、中盤部を過ぎてラストに入る転換点に仕組まれたショット群がこの映画の格を高める。午睡する家族たちを丁寧に撮ってゆく。平穏この上ない風景。しかし、ひとりだけ写らない家族がいる。家族の未来と家族の近未来を一挙に示す経済的な描写!人間が濃く描かれ過ぎるジャン・ルノワールの生来の灰汁の強さも程よく抜け落ちて、力の入り加減が主題にしっくりとなじんでいる。

こういう文化的な主題の縦軸に、女達の性の横糸が編まれていく。成熟した既婚女性の性も描かれれば、男を知らぬ若い女達の性の萌芽も描かれる。淡彩ではあるが性の萌芽のない幼い女たちも描かれる。人類の生活史と個人史とのからみあいの様相の表現が簡潔かつ十分に描かれる。だれそれの人生と言うことではなく普遍的な人生を感じさせる。ここまでくれば、劇映画とか記録映画とかのジャンルわけはどうでもよくなるという気がする。計算でここまで出来るだろうか。ジャン・ルノワールの本質を鷲掴みにする天才性としか言えない。

この映画の唯一の弱点は男達にある。皆軽い、あるいは弱い。特に退役兵が女達の性意識を一身に浴びる対象としては醜すぎるので、とても残念であった。5点にしなかった理由はそこにある。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)ナム太郎[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。