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[コメント] 日本侠客伝 斬り込み(1967/日)

終結部を見る限り、新たな着地点を作ろうとした意図が分かる。シリーズの中での本作のポジショニングを語るとすれば、それは、「悲劇の軽量化」ではなかろうか。
ジェリー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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今までになかったマキノ=笠原コンビの変化への挑戦が、筋やキャスティングにまで及んでいるようなので少し列挙しておく。

1.主役高倉健を非やくざの設定にせず、最初から現役やくざの設定にしたこと。かたぎから犯罪者へのハードル越えを映画が始まる前になされていたことにより、映画の中の主役の心理の変化が軽くなった。

2.このシリーズは、犯罪者集団と一般人の組織の相克(もっとはっきりいえば、やくざによるかたぎからの富の簒奪)を主要骨格としており、やくざがかたぎの主要登場人物を何人か殺すことで、主人公の殴り込みを正当化しつつ、ドラマのカタルシスも高めるのだが、本作では、かたぎの主要人物が怪我はするものの死なない。身を売った藤純子も辛酸を経験する前に買い戻される。この結果、主人公の行動動機が軽くなっている。

3.初期に登場していた、中村錦之助鶴田浩二といった、高倉健を支える大スターが本作含め、中期には登場しなくなった。悲劇の重さを作る肝心の人物が登場しなくなったわけだ。一方、大木実藤純子など、シリーズ初期で軽かった俳優の役割がドラマの中で重く大きくなっている。もちろん、中村や鶴田の重みとはおのずと別物である。

4.懐古的な背景に和服の人物を実に抜けよく程よい「小ささ」で浮かびあがらせる撮影法が確立している。暑苦しさのないすっきりとした画面が実に美しい。美術や舞台装置スタッフの努力は言うまでもないのだが、この古典性、透明感は、どんな筋でも軽々運んでしまう懐の深さを持つ。自分の作る映画がプログラム・ピクチャーつまり面倒くささのない撮りやすい映画であるという自覚のもと、「どう見せるか」以上に「どう飽きさせないか」を考えた結果としてのマキノのチョイスと思われ、この辺が同じやくざ映画を作っていても、癖の強さを出してくる加藤泰石井輝夫との違いではないか。もう少し後の世代の深作欣二とは対極である。

5.欲得にとらわれるせちがらさと無縁の人情の世界、人としての筋目を押し通す義理の世界の確立と調和を目指すのが任侠映画の最終眼目とすれば、これが歌舞伎にも似るのは当然であるが、歌舞伎同様、そのような理想郷からは外れたところに終結部が作られるのが普通である。しかし、本作ではかなりまれな例として、エンディングに理想郷が作られているように見える。ここにおいて重い悲劇を回避したい意図が完成したと思われる。

もちろんこうした軽さの獲得が、観客の嗜好にあったかどうかは興行記録を見るしかないのだが、一つの試みとしてマキノ=笠原コンビが、任侠映画を多元的な座標軸の中でどう位置決めをすれば当たるかを試行錯誤していたことがうかがわれる。大事なことは、巨匠コンビとはいえ彼らは、ベストの唯一解を確信している状態にあるのではなく、彼らが常に試行錯誤していることである。

(評価:★3)

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