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[コメント] 首(2023/日)

映画的な完成度はいいほうとは思わないが作品としては面白い。それは武(たけし)史観が面白いからでおそらくそれは武(たけし)の死生観ともつながっているのだろう。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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歴史の筋を追っていかなければならない中盤以降は、登場人物たちの視点の捌き方などに整理されていない印象があったし(たとえば斎藤利三と服部半蔵の関係性になにか史実的な見方があるのかどうか自分は知らないが「また会おう」的な場面とかドラマが複雑になるだけでいらなかったような気もする)、ほとんど説明もなく長篠の戦い、鳥取城兵糧攻め、高松城水攻め、本能寺の変、山崎の戦いが出てきて、一応の歴史知識がないと大返しの意義もピンとこない作りになっていてダイジェスト感がぬぐえずうまくいってない印象があった。しかし大返しの街道の辻々に飲食の補給所を用意している映像などを見ると、やっぱりこれって前もって準備してないと無理だよな。。と納得してしまう面白さはあった。

村重と光秀の関係が実際はどうなのかわからないが、衆道を迂回しながら描かれる戦国時代劇のほうにこそ無理があるといえばあるのだから、本能寺の変前後の光秀を中心とした武将たちの謎の行動に現代のわれわれが理屈を求めるにおいて、単に利害関係だけを分析してもどうも釈然としないことがあるとすれば、常に死を意識した世の中における男と男の契りのようなもの抜きには真実に到達できないだろうことは予想できる。自分には分かりようもないが、『仁義なき戦い』で菅原文太が殺しをやりに行く前に女の体を貪るように抱くシーンがあるが、あのような「自分」と「生」の絆を確かめ合うように、お互いの肉体を貪るように求めることが、女人禁忌という信仰などとも重なって衆道につながっていき、その生との絆が文字通り切り離されてしまった相手や自分の姿が「首」ということなのかな、と思った。

であれば、出自が武家ではない秀吉にその執着がないというラストに回帰できるのだがら、史実通り病的なまでの女漁りを繰り返す秀吉をこそ、光秀らの対局として描くべきだった筈なのに、たけし本人が演じることになって流石に76歳でそれはできなかったのだろうが、たけしも他の主要俳優と同じくらいの50代だったら、必要があれば女とやるシーンも描いたように思う。そこを対照的に描けば、衆道の価値観を持たない、性愛の対象者が女である秀吉と家康が戦国時代を生き抜き一応はまっとうな社会を作りだすというふうにつなげたり、命が生まれない衆道は死に彩られた人間関係であり、実質は首だけになった人間と同じなのだ、という見立てにしても面白かったと思う。

光秀の首を蹴り飛ばすラストももう一つキレがない印象だった。光秀軍が本能寺で信長の首を這いつくばって探しているのと同様に、秀吉軍も必死になって光秀の首を探し回っているシーンなどを描きタメを作っておいて、秀吉の前に差し出された時、俺はそんなもんどうだっていいんだ!と文字通り武家の価値観を一蹴するというふうに描けていたらもっといい終わり方になったのに残念だった。影武者の家康が何度も殺されるいわゆる牛丼もテンポがいまいちだし、数を重ねるごとに影武者の劣化(本人にどんどん似てなくなっていく)が進んでいるような進んでいないような中途半端な感じがもったいなかった。首絡みで一番面白かったのは、高松城主清水宗治が切腹の時、介錯した首が誤って船から水の中に落ちてしまい、家来が「殿!殿!」とあわてて水の中で首を拾うところ。価値観の違う他人の行いは真剣であればあるほどリアルに滑稽であるという真理が描かれている。ああ、実際こういうこともあったかもな、と思わせてくれる。

寺島進がカメラに映りたくて本番で斬られても斬られてもなかなか死ななかったっていう裏話を聞いてしまっていたので、あの場面では映画と関係なく笑ってしまった。『戦メリ』の冒頭の監督の指示どおり止まっていられないトカゲの話や、『夜叉』のなかなか刺青が見えるようにめくれないシャツの切り方とか、久しぶりに武映画で事前情報には要注意だったことを思い出してしまった。

(評価:★4)

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