[コメント] 回路(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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だから、これほどまでに飢餓感が募るのだけれど。
前半の、黒沢清監督お得意の、視界の隅で(日常では視界の外で)起こる尋常ならざるもの、事件、そこにある恐怖は、素晴らしかった。リトルB氏もご指摘の、落下シーンなんか鳥肌ものだった。前半は4点。
でも、そう、武田真二と思しきそれこそ幽霊みたいな赤シャツがボソボソ語りだした後半くらいから、ジワジワ「ナンダカナー」違和感が拡大されていった。
コメンテータ各氏が指摘している加藤晴彦を筆頭に若手演技者の箸にも棒にもかからん演技や、後半の「世界の終わり」の風景の陳腐さのせいかなとも思うけれど...
やっぱり、黒沢清監督のここで言う「生と死」とか「孤独」とか「永遠」とか「終末観」とかが、僕とは感覚的に違うなあ、という「違和感」なのかなあ?(原作が未読なので「?」にしておく。)
ラスト近くの役所広司のセリフ「君たちは間違っていない...」が妙に恥ずかしかった。それから、邦画では、ラストの主題歌で余韻をぶっ壊されることが本当に多い。coccoはないっしょ。
そんなこんなで後半は2点で、足して2で割って3点。[9.5.01]
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以下、コメントに付加的な余談。
「いのち」って「生」も「死」も同時に含んだパースペクティヴじゃないのかなあ?にもかかわらず、「生」と「死」に記号化→分断→二項対立化して、「生」だけを見つめて「いのち」と錯覚するところに、本質的な「いのち」の見失いがあるのでは?
「生きていても、死んでいても、独り」というのは、そういう地点からの発想なのかもしれんが、それもまた「有機質(例えば、簡単に言えば『肉体』)」と「無機質」(同じく『精神』)という記号化→二項対立化の無間地獄的回路(?)に組み込まれている気がする。
異様な形での「生」の拡大は、「死」と「孤独」を同時に拡大し、遂には「破滅の可能性」の拡大につながるのでは、というのなら同感だけど。
コメント冒頭の「コミュニケーションは...」も同じく。
今はうまくまとめる自信がないので、リルケの詩の引用で逃げることにしよう。
「われわれはかつて一度も、一日も、
ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る
純粋な空間に向き合ったことはない。われわれが向き合っているのは
いつも世界だ、
決して「否定のないどこでもないところ」―たとえば空気のように呼吸され無限と知られ、
それゆえ欲望の対象とはならぬ純粋なもの、
見張りされぬものであったことはない。」 ―「第八の悲歌」より
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