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[コメント] ドラゴン怒りの鉄拳(1972/香港)

仁侠映画に例えるなら、ヌンチャクはドス、ブルース・リーは高倉健、ノラ・ミャオは藤純子だ。 ・・・ちょっとやんちゃな高倉健だ。
G31

 リーが初登場シーンから表情にて内面の表出をやっているのだが、ひと目みてあまりに濃ゆいので、思わず吹き出してしまった。全篇リーの多彩な百面相が楽しめる作品で、特に怒りの表出は並外れている。感情の中でも怒りはとりわけ表現しやすいのかもしれんが、そうだったとしても、彼の”怒り力”は傑出しているだろう。なにか私憤というより義憤に見えるのだ。恋人(ノラ・ミャオ)に甘くささやくときの表情と、呆けた新聞売りに扮したときの表情が、似通っているのが気になった。

 日本人が有無を言わさぬ敵役として登場する。なぜ袴が後前なのかイマイチ分からないが、さほど気にならないのは(気になるが)、圧制者としてのうつろな威厳(つまり威厳だ)みたいなものが、それなりに付与されているからだ。時代が下がってからの方が当時の状況をそのまま受け止めがたいらしく、最近の映画は圧制者の人格に狂気や破綻を込めて描いてしまいがちだ。この作品では、<中国が、力を持ち得なかったがために、日本に屈服せざるを得なかった>状況がきちんと描かれている。私なんかは、外国映画に登場するキチガイ日本人にはもはやウンザリしているだけに、この手の<力を誇ってアジアに君臨する日本>という構図(歴史的には事実だが)には、つい心をくすぐられてしまう。下には強いが上には弱い日本人、高慢な態度も恫喝によって覆る日本人、の姿が、戯画的に(だが正確に)描かれていたけれども。

 一つ分からなかったのは、故郷(上海)に待つ恋人と結婚するために戻ってきた(そういう台詞がある)というリーが、それまでどこで何をしてたのかってこと。どういう理由で故郷を出、どういうきっかけで結婚を決意したのか。これが分からずともストーリーは十分成立するわけだが、映画が社会の欲望を映す鏡だとすれば、実は重要なポイントなんじゃないか。考えて結論の出ることでもないので、とりあえず保留にしておく。

 いずれにしても、リーが体現しているものは、中国人にとっての抵抗する精神、言わば”荒ぶる魂”。力になびくことに慣れきった中国人社会に、荒ぶる魂が戻ってきた。社会の荒ぶる魂が、物語という形をとって現れた作品と理解できる。圧政者が肝に銘じておくべきは、力で屈服させたつもりでいても、荒ぶる魂を根絶やしにすることは不可能だってこと。そんなことは、ブッシュ米大統領からそう名指しされた圧政者だけでなく、ブッシュ本人も身に染みて分かっているだろうけれど(多分)。

75/100(05/02/05見)

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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