[コメント] スパイ・ゾルゲ(2003/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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尾崎秀実を描いては『愛は降る星のかなたに』、スパイ活動を描いては『ゾルゲ』に遠く及ばない。端的に云って上記2作があるから本作は存在意義がない。ゾルゲその人について描くスタンスは既出作を上回るボリュームだが、しかしこの長ったらしい時間かけて何も描けていない。
冒頭から魯迅の言葉「希望とは地上の道のようなもの。人が歩けば道になる」が引用されるが、これが本作とどう関係があるのかがまず判らない。なぜ魯迅を持ち出すのかどう絡むのか、本編を通して観ても不明である。たぶん作者がたまたま思いついたからでしかない。本人に尋ねたとしたら、ゾルゲの足跡は道になっているじゃないかと意味の判らない説教をされそうだ。そう云われればはあそうですかと返すしかない。映画は全編がそんなものである。
ゾルゲと尾崎の出会いの仲介は、本作ではアグネスというアメリカのジャーナリストだったと時間をかけて描かれる。これは諸説あるらしいが、しかし映画を観て、他の誰でもなくてアグネスであったことが、二人の関係にとってどのように大事であったのか、全く判らない。ただアグネスだったヨと描かれるだけだ。アグネスは、日本は中国にひどいことをしたと考える人で、尾崎は彼女の著作を邦訳した、ということまでは判るのだが、それに何の意味があるのかよく判らない。そういう不明が頻発する。娼婦との情交とか、終盤の岩下志麻の乱入とか、それは史実なのだろうが、大きく取り上げる意味が判らない(ゾルゲを再評価するには近衛も再評価せねばならないのだろうか)。ただの史実のパッチワークにしか見えない。
件の書物「わたしが生きたふたつの「日本」」で、篠田は天皇制も共産主義も同じだと書いている。この論を私は読んだことがある。赤尾敏だ。彼は天皇もキリストも釈迦も同一人物と説いている。神様は同根という中学生の思い付きのような思想である。このスタンスは映画でもなぞられている。226事件が綿密に描かれるなか、西園寺が出てきて、私はパリコミューンのバリケードに篭ったことがあるがこれはコミュニズムに似ていると近衛文麿に語る。パリコミューンと226がクーデターというだけで同列に並べられる。いかにも乱暴である。そしてそこで強調されるのは、兵士は貧しい者ばかりという繰り返された同情論だけである。
ゾルゲはスターリンに見切られ、二重スパイの疑いもかけられ、ゾルゲを派遣した第4本部は解消されたとあり、本部員は拷問されている。ゾルゲの残した妻の悲劇もついでに描かれている。一方、戦後にゾルゲがソ連から称揚(彼の日帝のソ連侵攻の意志なしの報告により、ソ連軍は東部戦線に集約できた)された史実は触れられない。そしてラストはゾルゲの首吊りと89年のレーニン像の倒壊がWらされ、インターナショナルのギター伴奏「国際共産主義バンザイ」に続いてベルリンの壁も倒壊し、イマジンのインストが流れる。共産主義が終わった時点で、ゾルゲの足跡はイデオロギーを越えて評価されるだろう、と映画は語るのだろう。実に通俗な見解である。
ゾルゲの実績は上記のとおり、東部戦線での対独戦争にあり、ファシズムには対抗したが、コミュニズムに対抗した訳でも八紘一宇に対抗した訳でもない。ドイツ記者として先見の明のある記事を書いたと篠田は上記エッセイで褒めているが、それが別に尾崎と近衛を通じて日帝の政策に採用された訳でもない。だからゾルゲを理想化しても仕方がなく、何を一生懸命映画化したのか、まるで判らないのであった。
本作の見処は美術で、垂れ幕大量(「猫じゃ猫じゃ」もある)のカラフルな浅草や、有楽町は宝塚劇場の壁一面に貼られた撃ちてし止まむの巨大ポスターの再現は見ごたえがあった。影のない初期CGは不気味だが。
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