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[コメント] ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ(2001/米)

ain't enough to tear me down ―僕の期待の「ベルリンの壁」は打ち破られなかった。
muffler&silencer[消音装置]

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







《ことば》に力はあった。確かにあった。

前半は、ロックのリズムに乗せ、激しく垂れ流される、ヘドウィグのカタワレ探し半生伝にグイグイ引き込まれた。(*怒れる女の情念を叫んでたアラニス・モリセットを彷彿させる。トランセクシャル版アラニスか?)

だが、トミーとの馴れ初めが語られだした途端、失速し、手堅く巧くまとめたような後半は、まさに空中分解。負わせられた《十字架》である「カツラ」を脱ぎ捨て、《聖痕》である「アングリー・インチ」をあるがまま受けとめる、その姿に首を捻った。

(*あのラストならば、あのイツハク脱退事件以後のエピソードは、全部、ヘドウィグの「夢」であるという解釈もあり得ないだろうか?)

(*それにしても、イツハクへの「カツラ」の戴冠式もどきには、笑ってしまった。イツカク役のミリアム・ショアは、僕にはどう見ても女性にしか見えず、鑑賞中、ずっとレズビアンだと思ってた。オフィシャル・サイトによると、確かにショアは女性であるが、設定としては、トランセクシャルに憧れるジェンダー的には男性なのだそうだ。かなり混乱した。)

思うに、これがもし、三次元的な舞台なら、そんなチグハグな空中分解を気に留める「"見る"心の壁」も打ち破る生(なま)の力があっただろう。二次元的なスクリーンに、ヘドウィグ、彼の弾ける情念を押し込めてしまったところに、映画として「ガス欠」になってしまった感は否めない。

しかも、これは僕の目のせいなのだが、どうも舞台ミュージカル劇の映画化として、成功しているとは思えない。時空的に制限はあるが三次元である舞台から、二次元ではあるが時空的に無限の可能性を生み出す映画、その構造の利点を十分生かしているとは、どうも思えない。(*小技は巧いけれど。)

言ってしまえば、もしこの作品がビデオ化されたり、テレビという箱で流れるのならば、長尺の「MTV特集」と揶揄されても仕方がないと思う。(*「カツラ」の歌のシーンなんて、80年代に多産された安っぽいビデオ・クリップもいいところ。)

これは、この『ヘドウィグ・アンド・(ザ・)アングリー・インチ』にかなりの期待を持ってしまった僕が建ててしまった「ベルリンの壁」かもしれない。だが、僕は打ち破ってほしかった。構成・構造・物語自体を脱構築する、《ことば》の力と《音楽》の力で。「きれいにまとめてくれ」なんて僕は頼んでいなかった。

"The Other Half"(カタワレ)―確かに普遍的なテーマだ。実は、この映画が、何かしら「こたえ」のようなものを出したことが、僕としては、一番気に入らない点なのかもしれない。そんなにカンタンじゃない、と。いや、ヘドウィグの人生はカンタンではないけれど。

これなら、同じトランセクシャルがテーマでも、趣向も方向性も違うが、『パリ、夜は眠らない』(ジェニー・リビングストン監督作品,ドキュメンタリー)の方が、僕にとっては、映画として力があった。

*「それを言っちゃあおしめえよ」な追記:

そんなに嫌なら再手術すれば済む話だと思うけど。

〔★3.5〕

[京都みなみ会館/3.12.02]■[review:3.12.02up]

(評価:★3)

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