[コメント] 光の雨(2001/日)
萩原は,オレたちには黙りを決め込む,と批判するが,では全共闘に参加した「同志たち」は,自分たちの集まりでは現在の自分の足元から当時を語り得ているのだろうか(「自己批判し得ているか」とは言わない)。・・・痛みを後世に伝えることは何と難しいことか。大陸戦線・南方戦線を語れぬ皇軍兵士に同情する。
この方法は已むに已まれぬ突破口だったのだろう。それは同時に演じる役者たちのためでもあったのかも知れないが,結局彼らに甘い逃げ口を与えていて残念だ。
仮にメイキングの部分を抜いて連合赤軍の誕生と崩壊のみを描いたとしたら,それはきっと若い人には理解しにくいし,そもそも受けつけないだろうし,そこから何かを引き出す事も不可能だったろう。しかしではこの映画で先へ繋がる手掛かりが掴めるかというと,そうなってはいない。定型化された作り物の「若者」たちの感慨を強制的に押しつけられるのみだ。
『夜を賭けて』は未見であるが今回の山本太郎の起用は誤りだったと思う。彼には過激派の頭目は演じられない。裕木奈江は佳く演じているが,あの役にはもっと確固たる自信と強さが欲しかった。この映画でそれを演じるのは逆に良くないのかも知れないが。ただ,彼女が役柄を掴んでゆく過程がメイキングという手法で描けるのならば,この手法も成功し得ていたのかも知れない。
『鬼畜大宴会』は悪趣味な映画だが,視た直後にはあの殺戮の一端はそれなりに描けていたとぼくは思った。いま『光の雨』を視て,その感想は滑稽にも思われるが,しかし矢張りそうだ,と思い直した。
まあ簡単に言えばこの「自己批判」は先輩から強制されたカツアゲであり,強制された一気飲みのビールジョッキであり,自己開発セミナーでの叫び声である。自分から能動的に克服しなければ次へ進めない弱さ(=ここでは反革命)だ。正視しなければいけないのだ。逃げてはいけないのだ。
「集団」はそれぞれの構成員を「悪魔の手先」にして,一個人にこうした暗闇を突きつける。それが,一つ。そして権力は何時も一つの命令で一つの意思の「如く」襲いかかってくるのに,民衆は決して一つにはなれないという弱さ。それがもう一つの,ヒエラルヒーという悪魔を呼ぶ。
生温い日本の戦後史に於いてさえ,語りたくもない「人間という集団」の暗闇があった。世界史では無数に繰り返されているのだろうが,初な日本人には正直酷だ。果たしてこの痛手から立ち直り,そこから未来へ繋ぐことは出来るのだろうか。
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