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[コメント] A.I.(2001/米)

まず、娼婦でも男色専門の男娼でもなく、女性客に春を売ることを生業とする「男妾」がこれほど大きく扱われた映画を私は他に知らない。ここで重要なのは、その映画史上初かもしれない「男妾しかもロボ」のキャラクタを既にジュード・ロウはほぼ完璧な身体操作で演じているということだ。この映画には独創がある。
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さて、この映画について語る際に最も大きな争点のひとつとなる「二〇〇〇年後」について少し考えてみたい。まず、後の『宇宙戦争』でさえ成しえなかった「人類を絶滅させる」ことをさらりとやり遂げてしまっている点で、これが「人殺し」の作家スピルバーグの一到達点であることに疑問を挟む余地はないが、それにしてもどうして「二〇〇〇年後」なのか。観客が一様に唐突さや違和感を覚えただろう二〇〇〇年後という展開。私たちには推し量ることのできない、物語を遥か未来に進める必要性が作家にあったとして、なぜそれが「二〇〇〇年後」でなくてはならなかったのか。仮にそれが「一〇〇〇年後」や「三〇〇〇年後」であっても、観客は「二〇〇〇年後」と提示されたときと同じ程度に納得し、同じ程度に納得しなかっただろう。しかし、ここで「二〇〇〇年後」を「二〇世紀後」と云い換えてみたとき、ひとつの対応関係が浮かんでくる。ウィリアム・ハートが「愛することのできるメカ」の製造を発表するファースト・シーンから、フランシス・オコナー夫妻が登場する次のシーンにかけて“TWENTY MONTHS LATER”のキャプションが表示されていたことが思い出されるだろう。すなわち、愛することのできる子供メカのハーレイ・ジョエル・オスメントが母親のオコナーに出会うまでに二〇ヶ月の月日が要されたのに対し、その「再会」までには二〇世紀を経なければならなかったという対応関係である。さらに、オコナーの夫サム・ロバーズはオスメントのモニタに「二〇〇〇名」のサイバトロニクス社員の中から選ばれた、という点を付け加えてもよい。要するにオスメントとオコナーの間には「二〇」なり「二〇〇〇」なりの純粋に数字的な隔たりが仕組まれているということ。「純粋に数字的」であるがゆえにそれらはまったく荒唐無稽な対応に違いないが、少なくとも作家は二〇〇〇年間の時間跳躍を構造的に要請している。

もう一点、この映画の作劇のトリックについて指摘しておきたい。オスメントは人間になることを望むが、それは云うまでもなくオコナーに愛されるためである。オコナーに愛されないのは自分がメカだからであるとオスメントは考えたということだが、果たして本当にそうだろうか。オスメントがオコナーから実子に対してと同じだけの愛を得られなかったのは、彼がメカだからではなく、まさに「実子ではないから」と云ったほうが正確なのではないか。仮にオコナー夫妻がメカの子供ではなく「人間の養子」を迎えたとする。その後に実子が奇跡的な回復を果たし、さらに(この映画でオスメントが誤解されたように)養子が実子や家族に対して危害を及ぼす可能性を持っていることが認められたとき、その養子が(まさか山中に遺棄されるようなことはないにしても)実子と等しい愛を与えられないという事態は現実的にじゅうぶんに考えられる。したがって、この状況において「人間かメカか」という問題はむしろ二次的なものだろう。それにもかかわらず映画は人間になるためのオスメントの哀しい冒険を語る。その錯誤の錯誤性はしかし、たとえばフレッシュ・フェアのシーンで、囚われのオスメントが観衆から「本物の人間の子供」と誤認されることで助かるという(やはり問題は「人間かメカか」なのだと主張する)挿話を用意することで棚上げにされている。云い換えれば、錯誤を隠蔽する作劇上の手続きである。私はそのことをもってこの映画の評価を下げることをしないが(これはまったく趣味の問題)、観客の抱く違和感の一因となっているだろうことを認めるにやぶさかではない。

(評価:★4)

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