[コメント] 連弾(2000/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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『となりのトトロ』や『不思議の国のアリス』に出てくるような「家」(house)である。現実感があるようで、どこか現実感を欠いた、まるでファンタジーのよう。たとえばそれは、「家庭」(home)というものの非現実感そのもののようでもある。「家庭」って、考えてみれば、不思議なものじゃないだろうか。「家庭」を「家庭」足らしめる条件を探そうとすると、意外と決定的なものは見当たらないのだ。いうまでもなく、血縁などというものは、もちろん糞の役にも立たない。もしあるとすれば、それは長い間、同じ「家」(house)に住んでいるということだけではないのかな。同じ「家」に住み、同じ時間を過ごし、同じ記憶を共有する。その記憶=思い出の蓄積が「家庭」になっていくのだろう。とすれば、姉の麻衣が「あの家、庭がひろすぎるのよね・・・」と言ってたのが、奇妙な感じをおびてはこないだろうか。庭がひろすぎるということは物理的なものを表してるだけでなく、まさに「家庭」(家+庭)の存続のゆらぎのことを言っていたのだ。家と庭が離れていく・・・「家庭」が壊れていく・・・・・・。
「この家に正義はないのか?!」(弟)
「正義って何よ!?」(姉)
そんな姉弟の、おもわず笑いを誘うむつまじいやりとりも、ふしぎな感じで、「家庭」(home)ではなく「家」(house)にこだましていくのだ。もうそこには、「家庭」はないのだ。母は仕事にかまけ、男遊びにいそしみ、4人の記憶の共有は十分なものではない。共有の記憶=思い出のない家族に「家庭」はなく、ただ「家」があるだけなのだ。しかし、それでもこの映画は、ストーリー的には悲劇の王道(母の浮気による「家庭」の崩壊)でありながら、べつに大した悲壮感も悲哀のリズムも響いてはこない。むしろ、映画とすべての出演者があの演技派喜劇役者・竹中直人になってしまったかのように、妙にすがすがしく、おおらかで、やさしく、ほほえましい。おそらくこれは、監督である竹中直人から私たちに贈られた別の家族感の提示なのかもしれない。インターネットやコンビニなどによって、家族が同じ記憶を共有することがますます難しくなってきているのは避けようもない事実だ(実際、この映画でも、食事のときに姉はTVに夢中で、一見家族の団欒のように見えて、ただそこにいるだけでしかない)。だとすれば、これからの家族は束縛する「家庭」(home)を育むというよりも、むしろさりげなく存在する「家」(house)を築いていかなければならないのではないか。たとえ離婚しようとも、父は父であり、母は母であり、子は子であり、親子は親子である。そして、たとえ「家庭」が消えてしまったとしても、いつまでも「家」は「家」である。皆がいつでも帰ってくることのできるトランジット(中継点)としての「家」。竹中直人が主夫を演じていたのも、そんな理由からだったのではないだろうか。もしそれが、さびしいことなのだとしても、そんなさびしさを両手を上げてほほ笑み返すのが、この映画の結末だったはずだろう。
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