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[コメント] 郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942/伊)

背徳の対岸に見た真実の愛。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画のテーマは背徳。ヴィスコンティで背徳といえば同性愛だが、同性愛ばかりが背徳ではない。これは亭主のある女を愛してしまった男の物語。背徳と言えば、なんとなく後ろめたい言葉だが、背徳を犯してでも何かを求めようとする気持ちは、ある意味純粋だと思う。背徳とは、人間が決めた規則を超越すること。人としてのルールを破ってでも手に入れたかった愛、そう考えると、この映画の二人が根っからの悪人とは思えず憎めなくなる。

では、なぜ二人はうまくいかなかったのか。殺人以外に道はなかったのだろうか。あの家を出て二人で駆け落ちしていれば、もっと他の人生があったはずなのに、なぜ駆け落ちは失敗したのか。それはあの駆け落ちの時点で、二人の気持ちが真の愛ではなかったからだ。あの駆け落ちは、ジーノが自由を捨てられず、その中にジョバンナを引き込もうとしたものだった。だがジョバンナは家や財産を捨てられず、駆け落ちは失敗。女性にはジーノの浮浪者のような暮しなどできるはずもないから当然だ。次に再会した時、今度はジョヴァンナが家の中にジーノを引き込もうとして犯罪を持ちかけ、ジーノはそれを受け入れる。が、犯行後も家を離れようとしないジョヴァンナにジーノは嫌気がさす。そりゃ自分が殺した相手の家にそのまま居座るなんてまともな神経ではできそうにない。二人とも自分を捨てきれず、自分の世界に固執し、新しい愛の世界を受け入れようとしなかったことが間違いだったのだ。

お互いを自分の枠に引き込もうとしてる時点では、それは愛とは呼べない。本当の愛とは、相手を自分の枠に取り込む事ではなく、相手のために自分の枠を取り外す事が愛なのだ。(これは全作品におけるヴィスコンティが主張するテーマの一つだと思っている)河辺でジョバンナに自分の上着を脱いでかけるジーノ、これこそ愛の姿なのである。ラストでようやくその事に気づいた二人は、ようやく真実の愛に辿り着いた、と言える。が、時すでに遅し。犯してしまった過ちは、やがて自分たちに戻ってくる。郵便配達がもう一度郵便を届けに来るようにそれは必ずやって来るのだ。

小説や他の映画化作品と違う点として、夫殺し未遂、夫殺しの際の車の転落、裁判の場面などが挙げられる。これらはいずれもスリリングな場面で最も映画向きな要素である。ところがこの映画ではそれらを全部カットした。それはこの映画を娯楽としてではなく、あくまで人間の本質に重点を置いていることを証明している。ニコルソン主演の映画化のように情欲の直接描写ももちろんない。(もっともこれは時代的なものもあるが)また事故現場のシーンでは、事故に見せかけて殺すという見せ場を排し、その後の状況のみで語る(しかもワンカット)という大胆な筆致もヴィスコンティ全作品に通じる特徴とも言えよう。

なお、この映画は当時上映禁止になったそうなので、社会背景に合わせて自分なりに置き換えてみた。するとこの映画は、ファシズム(ジョバンナ)が自由な大衆(ジーノ)と結託して、体制(亭主)を倒し、国(レストラン)を乗っ取るという映画に思えてきた。映画では、そんなファシズムはやがて滅びゆく(死ぬ)運命であり、ファシズムに流され自分を見失った大衆もいずれ破滅を味わうだろう、と告発しているように思えてくる。ラストシーンのジーノの視線は、ファシズム政権に甘んじている大衆に向けられており「いつかはおまえらもこうなるんだぞ」というシニカルな視点が込められているように感じた。(そういう意味ではこの映画を上映禁止にした人もなかなか見る目があったと逆に感心する)流れに流されたままだと、いつかとんでもないことになるぞという視点は、今の日本にも言えることかもしれないと強く感じた。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ダリア

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