[コメント] 知りすぎていた男(1956/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ベン(ジェームズ・ステュアート)は、妻ジョー(ドリス・デイ)が言うように、ベルナール(ダニエル・ジェラン)に個人的な情報を色々と知られながら、ベルナールのことは殆ど何一つ知らないままに遺言を受けとることになるのだが、この途切れ途切れにベルナールが口にした言葉だけで既に「知りすぎた男」に変身させられてしまうのであり、何とも皮肉な機知を感じる。
モロッコという、英語もなかなか通じない異国で、周りの人間とも距離を感じながらも旅を味わうマッケナ一家。彼らに向けて、いぶかしむような眼差しを向けていたドレイトン夫妻(バーナード・マイルス/ブレンダ・デ・バンジー)と急に親しくなれたと思いきや、彼らこそが敵だったという裏切り。そうした孤立状況に一家が置かれる異国のホテルでの、ジョーと息子ハンクが合唱していた“ケ・セラ・セラ”。このシーンでは一緒のショットに仲よく入っていた二人が、大使館のシーンでは、階段を隔てて離れ離れになりながらも、歌声と口笛を交換し合うことで、一つの空間に一緒に居るのだということを確認し合う。この時点ではまだ危機が去っていないだけに、このシーンにもより情感がこもる。
そのシーンに先立って、アンブローズ・チャペルでベンが単身ドレイトン夫妻と対峙するシーンでも、ベンは大声でハンクの名を呼んでいた。この時も、大使館のシーンと同様に、ハンクは二階に監禁されている。演奏会の開かれるアルバート・ホールのシーンでは、暗殺者とその標的をジョーが上方に見上げるという形で、やはり縦の空間性が演出されている。暗殺者もドレイトンも、敵方の男はいずれも高所からの落下という、縦の空間性に滅ぼされる形で絶命する。
チャペルでは、ドレイトンが牧師として「苦難」について説教をし、ホールでは、焦燥と不安に今にも悲鳴を上げそうなジョーの表情の挿入によって、演奏される音楽が(「恐怖」を詠う歌詞も相俟って)ジョーの声そのものであるかにも聞こえる。マッケナ夫妻を苦しめる当の声が、彼らの心情を代弁しているのだ(いかにもジジェクが喜びそうな構図だな)。
チャペルのシーンでは、聖歌を歌うふりをして会話を交わすマッケナ夫妻や、ベンが脱出する際に鐘の紐をよじ登り、鐘の音で群衆が集まるなど、音響性はギャグにも活用されている。
それにしても、やはりあの息子がちっとも愛らしくないのは、ヒッチ先生はその辺のことにまったく無関心なのだろうなと再確認させられた感がある。しかも名前が「ハンク」……。せめてチャーリーとかジョーイとかトムとかにしてほしいと感じたのは僕だけですかね。ラストカットの呆気なさはやはり洒落ているが、今回再鑑賞してみると、親子再会に伴う情感への無関心ぶりの方が目立つ印象。ホールのシーンと、大使館のシーンでのドリス・デイの演技が無かったら、まったく味も素っ気も無い映画に仕上がっただろう。バンジーの演技もいい助けになっている。
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