[コメント] 知りすぎていた男(1956/米)
ご存知のとおり、この作品は、自ら監督した『暗殺者の家』をリメイクした作品。この作品に自己模倣という要素はまったくみあたらない。
一言で言えば、さらわれた子供を求めて、父と母が必死にモロッコとロンドンを駆け回るドラマ。ものすごく単純なつくりであるが、このエモーションの深みはなんということだ。
凡庸な作品に限らず、いい作品であっても、一般的には「ヤマ場」という場面を作るのだが、これは、同時に「ダレ場」というシーンもできあがってしまう。これは映像の生理である。しかし、この作品に「ダレ場」の存在する余地などない。
この映画のあらゆる要素ー脚本・演出・キャスティング・カッティング・照明・構図・衣装・美術・そしてなによりも音楽ーがすべて神様の完璧のコントロール下にあって、その交響に圧倒される。どのシーンをとっても、無駄がなくこの映画の味わいの醸成に貢献している。
たいていのヒッチコック映画には犯罪がからんでおり、筋だけ思い起こすと決して奇抜な犯罪などなく、(『サイコ』という例外はあるけれども)ありきたりの犯罪が多い。この映画にしてもある意味でごく陳腐な「御家騒動」が犯罪の骨子である。にもかかわらず、この犯罪をめぐってわれわれが目にするものは、ありきたりの映像のはるか上の次元をいく。
サスペンスとは、見るものを驚かすことではなく、次に何が起こるかという興味をエンディングタイトルが出るまで観客に維持させ続けること。犯罪がからんでいるとか、人が殺しあうとかまったく関係ない。映画がサスペンスの連鎖であるとすれば、アルフレッド・ヒッチコックこそ究極のフィルムメーカーである。
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