[コメント] ガス人間第一号(1960/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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水野と藤千代の共通点を挙げるとすれば、両者とも人間達の身勝手さとそのプライドの軽薄さを知っていたということだ。実験のために幾人もの命を犠牲にし続け、倫理など微塵も存在していなかった科学者。家元に尽くすよりも世間体に迎合出来る財力だけを考え、プライドというものが無かった弟子達。そんな人間達を知っているが故に、二人は社会との関わりを断絶したといってもいい。そして社会の側から見れば、二人は「捨てられた」存在でもあった。
だが水野は人間でないがゆえにどこからともなく財力を得て、藤千代にひたすら尽くす。彼女も最初はその行為を歓迎するも、彼の正体を知って一瞬戸惑う……が、水野を拒絶することは出来なかった。というか、しなかった。既に世間体から奇異と好奇心の目を向けられた状態では、誰も真剣に向き合ってはくれないであろうし、警察ですら“水野から愛されている”ことを理由に利用しようと企んでいる……。つまり藤千代のことを真剣に受け止め、かつ向き合おうとする人間が誰もいないのだ。水野以外は。
水野は藤千代に惜しみない愛を注ごうとする。だが注げば注ぐほど彼女自身が堕ちていく。身辺は豪華絢爛、家元に恥じない風格を持っていたとしても、藤千代自身の心は全く昇華されない。だが水野を拒絶したところで、世間体に彼女を受け入れる余地は無く、ましてや屈辱の烙印を押さんとする社会に頭を下げることなど、彼女に出来るはずも無かった。その凛とした表情の裏で、恐ろしいほどの苦悩を続けていた藤千代。しかし水野はそれに気付いていたのだろうか?
本多監督は本作に関してこう述べている。「(結末について聴かれて)……あれは、藤千代が情にほだされた、という形だね。一緒に死んでやらないと、収まりがつかないということ。(中略)だから、死ぬことにしたって、男女の好きだ嫌いだということを超越した、状況に置かれた人間の立場から心中したってことだろうね。」
そして舞を踊り切り、二人は熱い抱擁を交わす。水野とすれば万感の思いだったろうが、藤千代からすればその逆だった。社会に戻ることも出来ず、かといって水野と共に歩むことも許されない。家元として、人間として、そして女として、最後に出来ることは一つしか残っていなかった。
彼女自身が、スイッチを押したのだ。
あらゆるものを呑み込まんとする情念の炎の中に、築き上げてきたものが全て消えていく。その中から這い出てきたガス人間の姿に、自分はどこか未練のようなものを感じるのだ。
絶命する寸前、水野はこう思っていたに違いない。
「何故だ・・・」
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