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[コメント] マッチ工場の少女(1990/フィンランド)

この映画のきわめて特異なスタイルも、悲劇と笑いを同時に極めようとした結果と見ればあるいは当然のものだと云えるのかもしれない。つまり全ては「面白さ」のためということ。
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カウリスマキはその作品内部で現実社会に対する言及を行うことを怠らないし、社会的な問題意識から出発してつくられた作品も多いだろう。それにもかかわらずカウリスマキが「映画」にとっては毒にも薬にもならないただの「社会派」の監督に成り下がってしまわないのは、彼が「映画」の面白さとは何かを知っているからだ。要するに、登場人物(ここではカティ・オウティネン)が散々な目に遭うのは、映画として面白いということだ。

「登場人物が散々な目に遭うこと」は確かにカウリスマキにとって社会的な告発でもあろうし、社会派の監督にとってはそれ以外の何ものでもないだろう。だがカウリスマキがオウティネンを散々な目に遭わせるのは、まずそれが端的に面白いからなのだ。このように「人が散々な目に遭うこと」を面白がるのを不謹慎と云う人もいるかもしれないが、映画にとってはそれは厳然たる事実であり仕方のないことである。例は何でもよいのだが、たとえば『近松物語』でも『友だちのうちはどこ?』でも、その面白さは登場人物が散々な目に遭いつづけることに拠るところが大きかったではないか。『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』という映画が近年では注目すべき傑作となりえ、またトミー・リー・ジョーンズにこれほど映画監督の才能があったのかと私が驚いたのも、ジョーンズが執拗なまでにバリー・ペッパーを散々な目に遭わせたからだ。

また、ここで「散々な目」を「過剰な不幸」と云い換えれば『マッチ工場の少女』がカウリスマキ史上最も過剰な簡潔さを必要としたことも明らかになる。過剰な不幸は過剰な簡潔さで描写することによって際立ち、同時に笑えるものとなるのだ。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)りかちゅ[*] Yasu[*]

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