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[コメント] ブルックリン横丁(1945/米)

いかにもダリル・ザナックが制作しそうな社会派映画。典型的な演劇演出をやってしまっている。ブルックリンに住む生活に疲れた家族が、機関銃のようにせわしなく喋り続けてテーマを掘り下げてくる割には、痩せた感じしか与えない。
ジェリー

 喋ることでキャラクターが立ってくるという頑なな演劇的信念に蝕まれて、コミュニケーションが登場人物同士の会話でしか成り立たなくなり、それを見せることが映画だという勘違いが厚かましく映画全編を覆ってしまっている。優れた映画に必ず存在する、登場人物と観客とのコミュニケーションの切り口をどこにも作らなかったことが、平均点しか与えられない理由だ。せっかくの良いテーマ、良い撮影と照明、良い美術設計を台無しにしてしまった。俳優たちの迫真の演技は褒められてしかるべきであるが、上滑りしてしまった。はっきり言って、エリア・カザン監督以外の全キャストと俳優にはもっと高い点をあげたいくらいだ。

 同じくしゃべくりの映画である『十二人の怒れる男』が、そのような陥穽にはまる寸前でかろうじて、陪審員室の部屋の湿気や暑さの描写を媒介することで観客の想像力の侵入口を準備したような工夫がもっと有効に生きていれば、と思われて残念である。本作品にも、もみの木、子供たちが父親に贈り物として渡す靴紐で作った懐中時計の鎖、学校の先生のくれた一切れのパイ、前に入居していたおばあさんが残したピアノ、こうした物語を膨らませる可能性のある重要な小道具が登場する。しかし、一度きりで使い終わってそれ以上のストーリー上での変奏機能を持たせなかった。それが、この映画への入りづらさの原因である。もみの木以上のものになってこそ映画におけるもみの木である。

 三十年近く前に見た映画であるが、私は、久々に見直してすっかり記憶違いをしていたことを知った。クリスマスツリーのエピソードでエンディングと思っていたような気がする。ciemascapeのコメント欄には「詳しいストーリーはよく思い出せない。しかし、凄く感動したことを覚えている。ビデオ出てないでしょうか」と書いた。今回懐かしさは感じたが感動にはいたらなかった。こうして思い出を失うことが映画にはあって、映画というメディアは時に残酷だと感じる。

 なお断ってくと、ダリル・ザナックのクレジットは実はタイトル部にはない。しかし、20世紀フォックスの制作担当役員である彼の検閲を経たことは間違いないと思う。脚本の選定もいかにも彼らしさを感じる。それが20世紀フォックス映画の味でもある。

 さらに断っておくと、もみの木以下、映画の豊かさを生み出す(可能性のある)小道具類をいくつか先ほどあげたが、すべてある登場人物から別の登場人物に贈与されるものばかりである。小道具の重要性は、登場人物が作り出すということと、映画の文脈の中で価値が生まれるということの二つと無関係ではない。このことも忘れてはいけないように思う。

(評価:★3)

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