[コメント] 「A」(1998/日)
オウムの一連の事件が起こった頃、自分はテレビ報道の映像を見ながら、「カメラの視点はいつもこちら側にあって、あちら(オウム)側にはないんだよね」なんて知ったふりで喋っていた。この映画は、言わばあちら側に潜り込んでその裏側を見詰め、そしてそこからこちら側を見詰め返そうとするドキュメンタリー映画だ。そこにはかの荒木広報副部長や麻原の娘、その他残存信者、また彼らを排除しようと躍起になる住民やマスコミ、官憲の姿が映し出されている。
この映画についての評には、彼らオウムを異形の他者として排斥しようとする市民社会に対する違和感を表明するものが随分とあった。だが自分は、逆にその違和感の方にこそ違和感を覚えた。確かにそこに映し出される住民、マスコミ、官憲の騒ぎぶりはかなり異様に映るには違いないが、オウムがそうしたヒステリックな攻撃に曝されるのはまずは彼らが社会にテロ行為をはたらいたからであって、かつ未だに(少なくともこの映画の撮影されていた時点では)更なるテロ行為の可能性が拭い切れない状態にあったからに他ならない。そんな集団が隣にいるとすれば誰もが取り敢えず退去を願うだろうし、それに対し官憲がとった荒っぽいやり口も(正当なものでは勿論無いにしても)あのくらいやるだろうという意味では驚くにも値しないものではなかったろうか。これに対してことさらに違和感を表明するのは己の立場を取ろうとしない欺瞞ではないだろうか。オウムが個人としては穏健で純朴な青少年の集団であろうことくらいは誰でも分かっていたはずだ(そんなことさえ分からなかったと言う人が、今度はこの映画を観て住民や官憲の滑稽で醜い騒ぎぶり今更に目が覚めたかのように言及するのではないか?)。けれどだからこそ、何故そんな彼らが社会に対して毒ガスを撒き散らすことにまでなってしまったのか、そこにこそこの映画に映し出された滑稽で醜い騒ぎぶりの根本はあるはずなのだ。オウムが排斥されるのは、それがオウムだからではない。それが毒ガスを撒き散らした集団であるからだ。言わば毒ガスが撒き散らされた時点で否応なく戦争が始まってしまっていたわけで、そうなればどちらかに攻撃能力の無くなるまで闘争が継続されるのは当然のことだろう。それは社会学的考察の主題であるよりまえに、まず社会秩序維持の緊急課題であった筈なのだ。勿論こうした物言いは何某かの立場を取ろうとする物言いだが、それは市民社会的良識のヒステリックな攻撃にもオウム信者の独善的な純朴さにも等しく距離を保持しながら、尚且つ実践的な判断をしようとする立場に他ならない。起こったことに対して取り敢えずの秩序維持の為に判断して行動すること、全体からはかった自他の行動を自覚すること。少なくともオウムの起こした事件は、そうした政治的思考を強いられる出来事であり、それは誰もが当事者として思考しなければ欺瞞になってしまうような出来事であったはずなのだ。
この映画は、3年にも及ぶ長きに渡る取材の中で主に荒木氏の日常にキャメラを向け、その騒がしかったり静かであったりする生活、それまでの人生遍歴とその記憶、信仰とその動揺を捉えている。だが(そこに今更に何かを見出したかのように表明する人たちに対して)敢えて言うなら、それがどれほどのことだと言うのか。これよりならば、テレビ放映のあるドキュメント番組に映し出された一人暮らしの若い元信徒の方が社会に裸一つで放り出される厳しさ辛さを余程体現していた。また、ある報道番組でのインタビューの方が、「普通の人は死を知らないから騒ぐんです」と嘯く女性信徒の屁理屈の欺瞞を如実に映し出していた。荒木氏をはじめとして彼ら残存信徒が動揺しながらもいまだに信仰の道を歩んでいられるのは、彼らに生活の場があるからに他ならない。その場がある限りオウムが市民社会から排斥されるのも当然だろう。何故ならこれはオウムという具体的な活動の基盤をもつ集団が始めた戦争であって、その終結は現実的折衝の末の合法的和平による住み分け、それが駄目ならオウムか市民社会かどちらかの潜在的攻撃能力の全くの消滅、何れかしかないからだ。自らの思いを仮託した教祖とその教え、属する集団が社会に対してはたらいた犯罪をキッチリ捉えることも出来ず(その余裕もないのだろうが)、場当たり的な対応と自閉を繰り返す彼らには世界が見えてない。そんな無自覚の中で漂流している彼らとの距離を計り兼ねながらキャメラを廻し続けているこの映画の制作者の誠実な困惑、それはよく分かるが、その誠実な困惑は結局通り一遍なマスコミ的報道の在り方を相対化する視座を提供するだけになってしまっているのではないか。勿論それだけでも貴重な労作であって、その誠実な困惑は事態の混沌自体を映し出していると言えるかもしれないが、そこから現代日本の混沌を引き出して安易な結論にすることは出来ないだろうと思う。
日本にだって、自閉的なオウムでもヒステリックな民衆でもない、良識的で自覚的な市民は存在すると思う。それは騒がしいマスコミの前にはあまり姿を現さないというだけだろう。
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