[コメント] 衝動殺人 息子よ(1979/日)
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本作の主人公夫婦は偉い人だし、映画が犯罪被害者給付金制度の成立に貢献したのは偉いことだと思う。この程度の制度もなかったのは恐るべきことだし、民主主義は不断の努力だと思わされる。
しかしこれが吹き飛ぶほどに失望させられるのは、あの木下ともあろう人が、犯罪被害者への共感を重んじるばかりに、なのだろうか、犯罪加害者への共感をはなから無視してしまっていることだ。ヤクザの鉄砲玉やただ女を殺したかったと嘯く通り魔、酔っ払いの消防署員ら、実に現代的な犯罪者たちを加藤剛の教授は風土病で片付ける。結果、映画の論点は週刊文春か新潮かと見紛うような単純な善人悪人の図式となり、これをトロ臭い演出で煽り立てる。
田中健の「かたきをうってくれ」なるファナテックな遺言を胸に若山富三郎は被害者支援の活動を続ける。ここには暗い衝動の理性による昇華があるはずだ。しかし映画はそのような解釈をしない。若山の死に際して甥の尾藤イサオは「犯人は刑期を終えているのに」と蒸し返す。まるで殺人犯は全員死刑が望ましいと云わんばかりである。量刑による悔悛の可能性に映画は全然言及しない。
50〜70年代の邦画は、犯罪加害者(予備軍)への想像力、共感への可能性でもって成り立ってきた。いくらエログロに傾斜してもこの一線だけは死守されていた。この先鞭をつけたのは当の木下だったはずではないのか。『女の園』や『永遠の人』『死闘の伝説』などで新左翼運動に一定以上の共感をすら寄せた彼は、本作で引用される三菱重工爆破事件を前に「転向」している。いやあもう、ついていけませんとばかりに。それは判る。判るけど、じゃあそれまでの貴方のキャリアは何だったのか。先導してきた責任はどうなるのか。これを咀嚼したうえで一本世に問うのが当然であり、それができないのなら沈黙で応えるべきだった。本作のような、ぬけぬけと反対側から批判するような映画を撮るべきではない。当たり前である。
本作は高校のとき体育館で鑑賞させられた。そのとき書いた感想を覚えている。「裁判所で刃物沙汰に及ぶ若山を「私は何も見ませんでしたよ」と不問に付す看守(小坂一也)が格好良かった」。本編が面白くなかったので冗談で断片を褒めたのだろうが、今回観直して、呆れたことに同じ感想だった。その他は子供にも判る退屈さだったのだろう。この長回しのアクションはとても優れており全盛期を一瞬想起させられ、他の木下節が腐食したようなズルズルベッタリに湿気た演出と一線を画している。そして皮肉なことに、ここだけに犯罪者への共感の可能性が示されてある。
あと、本筋に関係はないが、河原の石を乗せただけという若山の父の墓(飯田市)は、私の田舎の風習も同様なので興味深かった。凸ちゃんの新婚時代は(ナルセも『女の歴史』で演じさせているが)いかにも無茶。彼女の血を吐くような嗚咽が最後まで変わらなかったのは、ただただ感慨を覚える。無駄遣いが虚しい。
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