[コメント] 恍惚の人(1973/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「身につまされるわねー。明日は我が身だわー」「いやもう今日からよー」(上映後、ロビーで聞こえた年配のご婦人方の会話)
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今から40年前の作品。今75才以上で高齢者と言われている人は、当時30代後半から50代という感じか。その後、この人たちがそのまま長生きし、高齢者の数は激増したわけだが、その割りにお年寄りが徘徊する光景を街で目にしない。社会は、ボケた老人を日常から隔離することに成功したのか、それともそもそも映画で描かれるほどに問題は深刻でなかったのか。いずれにしても、今なら認知症老人のとる行動として当たり前に知られていることが、いかにも衝撃的という感じで描かれている。当時としては先鋭的な問題提起だったのだろうとわかる。
感心したのは、状況設定が丁寧でしっかりしていること。描かれ方から見るかぎり、森繁のボケは明らかに妻の死以前から進行している。家族は、この問題がまだ社会的に広くは認知されていないこと、また自分の身内がそうなった事実を受け入れがたいこと(そういう描写がちゃんとある)から、おばあさん(森繁の妻)の死で急におかしくなったとする。だが実際はこうだろう。妻のサポートがなくなったために、問題が如実に露呈した。拍車がかかったということはあるにしても、そこからは始まったということではない。例えば、冒頭、雨の中を傘も差さずに徘徊する森繁を見ても、高峰はさほど仰天することなく受け入れている――普通、はじめて見たのだったら相当びっくりするはずだ。
つまり、昔、例えば江戸時代だって長生きする人はいたし、中にはボケる人だっていたはずだが、周囲(血縁、地縁) が支えていたので顕在化しなかったのだ(むろん今より衛生的でも人道的でもない世の中なので、頭と体が同時に頑健でない人は、さほど長生きできなかったろうが)。
この家族は、もともとの墓が遠方にあるとされている。地縁的な繋がりから離れて(おそらく仕事の関係などで)東京で暮らし、そこに両親を呼びよせているのだろうと推察される。(地域コミュニティ的な繋がりはあるようだったが。それすら失われているのが今の「問題」なのだろう。)
これこそが、「恍惚」老人出現の社会的背景なのだ。
このように、きちんとディテールを積み重ねていること(事実や現実に対して謙虚で忠実であること)が、物語を普遍的にしているのだろう、という感想を持ちました。
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映画として物足りなかったところ。「人間として理想の姿かも」(篠ヒロコ)、「さとしが赤ちゃんの頃こんな表情で笑っていた」(高峰秀子)といった台詞はあったが、森繁久彌の仕草や表情からそこまでのものは感じられなかったような。それでも凄いレベルの演技をなさっていると思ったが。
80/100(12/06/10見)
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