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[コメント] コーダ あいのうた(2021/米=仏=カナダ)

60〜70年代くらいのアメリカのTVのホームドラマを見ているような気持ちよさ。「これこれ、こういうのでいいんだよ」的、町中華のような味わい。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







家族のために自分の人生の自由をあきらめてしまっているティーンの葛藤。そうしなければならない家族の事情は、決して家族たちの不徳にあるわけではない。何より自分がその家族を大好きだし、家族も自分を愛してくれてる。そんな、今すぐ何かを決めなきゃいけないわけでもない日常に、ふと起こった自分の才能の覚醒とやりたいことがもたらす波乱。

この今すぐ何かを決めなきゃいけないわけでもない、という間の日常の描き方がとてもいい。冒頭で出てくる、漁の最中に主人公がラジオから流れる歌に合わせて大声で歌うシーンと、彼女が音楽学校の試験で歌う際に回想シーンで出てくる、船の上で何やら口論をしている父と兄を離れたところから彼女が見つめているシーン。本来なら一番家族に依存度の高いはずの家族の末っ子が、一番家族を見守ってあげなければならないという宿命(まさに宿命)。彼女の、誰にも理解してもらえない、絶対的な孤独感がよく描けている。

だからボーイフレンドと初めて自分のお気に入りの湖(?)で、二人ではしゃいで、浮かんだ丸太越しにキスをするシーンが劇的なのだ。自分は自分の人生の一歩を踏み出してはいけない人間なのだ、と自分に言い聞かせてきた彼女が、その一歩を踏み出すことを自ら背中を押してあげるキスなのだから。ふつうのファーストキスの倍以上の意味がある。それそれ、それでいいんだよ、と、彼女の成長を見届ける場面。連続ホームドラマの最初の頃の主人公がだんだん成長していく姿を見てきた伴走者のようなうれしさがある。そして彼女がずっと小さな頃から「家で一番大人だった」ことを家族が知り、彼女の自立を応援する側にまわる。彼らもまた成長したのだ。それを見届けることの幸福感。フィクションにこれ以上何を求めるのか、これこれ、こういうのでいいんだよ、と井之頭五郎のようなセリフを言いたくなったのだった。

つまりは聾唖の家族という以外、どこにでもあるっちゃある無難なホームドラマ的一家の話だ。こういうのは「大草原の小さな家」が象徴するように家族のメンバーのキャラクターが魅力的かどうかが重要。この家族に魅力を感じるのは、下ネタを含めズケズケなんでも「話す」家族の空気感だろう。口に出さずに察してもらう、などは、まどろこしすぎてだめなのだろう、言いたいこと、言うべきことは、はっきり意思表示しなくてはならない、そういう姿勢の必要性がもたらしたあり方なのかも知れない。そこに家族間の(家族間のみならず広く社会の人間の間でも)コミュニケーション不全に悩む、会話のできるわれわれが率直にうらやましいと感じてしまうコミュニケーションの在り方を感じるからだろう。

ハンデを持った人たちの頑張る姿に「勇気をもらいました」などと、感動ポルノにひたるのは、まあわからなくはないとしても、そのハンデを持った人たちを「彼らは清らかな人たち」と自分都合で勝手に解釈しがちな危険思想の持ち主はある一定数はいるのだと思う。この家族が下品な会話が多いのは、そういう危険思想な観客たちへの牽制なのだろう。手話に「使用済みのコンドームを外す」という表現があるのは必然なのだとしても、それを娘のボーイフレンドに話す父親はふつうに考えてまともな人ではない。こういう牽制をしていかないと、ハンデを持った人たちへの「清らかな人」という社会の偏見はぬぐえないのだろうな。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)シーチキン[*] けにろん[*]

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