[コメント] 二階堂家物語(2018/日)
この観る者の集中をそらさない吸引力は、抑制の効いた「台詞」、控えめでいて充分な「音楽」、そして何より豊穣な「自然音」によって作りだされていることに気づく。鳥のさえずり、雨の強弱、田園や街角を渡る風、自転車の軋み、食器や書類がたてる雑音。繊細にコントロールされたそんな「自然音」によって文字通り劇的な情感が画面から伝わってくるのだ。
最近の日本映画で、こんなに緻密な音響演出がほどこされた作品に出合った記憶がない。まぎれもなくアイダ・パナハンデ監督の成せる技なのだろう。そういえば、あのアッバス・キアロスタミ監督(彼もイラン人だ)の『ライク・サムワン・イン・ラブ』やイェジー・スコリモフスキ監督の『アンナと過ごした4日間』の音響演出に似ている。
逆に、描かれる「家」制度のしがらみは懐かしくも日本的だ。ここで描かれるのは家系という垂直的な「連なり」の呪縛だ。昨今の日本映画が、(これが実に多いのだが)疑似家族までもちだして、絆という言葉に象徴される水平的な「繋がり」に固執するのとは対照的だ。あの小津安二郎が、ひとり身になった父親(笠智衆)と婚期を逃しそうな娘(原節子)の葛藤として描き続けたのも垂直的な「連なり」の呪縛だった。
家族の「繋がり」ではなく、家系の「連なり」という縛り。典型的な昭和の核家族に育ち、さらなる核家族を増殖させている私にも、いや私だかこそ「連なり」の断絶に苦悩する「家」の「人」たちが、歴史という鉄鎖を引きずりながら沼の底に沈殿したように存在しているだろうことは想像できる。
そして、同じ苦悩を抱え込みながら、歴史と制度の綾に自由(人権)を奪われた皇室の行く末に思いが至ったことは正直に書いておく。
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