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[コメント] 希望の樹(1976/グルジア=露)

因習とは思考を停止させた大衆の言い訳であり、守り引き継がれることで澱のように堆積し、直視すべき事実を見えなくしてしまう。それは既得権者にとって実に都合の良いもので、ときに“柔らかな権力”として発動され、連帯と陶酔という大衆のガス抜に使われる。
ぽんしゅう

真っ赤なケシの花と死にゆく白馬。この鮮烈な挿話が総てを象徴していたのだ。そのスタンダードサイズのカラー画面は、これから始まる「とり残された異郷」すなわち「硬直した世の中」で起きる普遍的な葛藤と対立の物語を覗き見るための入口だったのだ。

無意識のうちに変革と自由を抑圧する守旧的な「支配者」と、本能的に因習、掟、伝統に抗う世間から変わり者とみなされる「突出者」たち。最大多数を占める「大衆(村人)」は、思考を停止して前者に甘え、ちっぽけな優越感を持って後者を傍観する。

この「支配者」と「突出者」のエキセントリックな二極に、盲従と傍観を決め込む「大衆」が加わった三つ巴の構図こそが古今東西の普遍的な対立のカタチなのだ。そんな深刻なカタチが、一見牧歌的なこの村にも一触即発の火種となって燻っているさまが黒いユーモアを交え描かれる。

終盤、霧雨に煙る泥道で大衆によって繰り広げられる私刑の行進が鮮烈だ。無彩色の激しい映像は、冒頭の真っ赤なケシと白馬の映像の裏返しとなって、人の無力と暴力を嘆き告発する。この容赦のない不気味な行進に暴力に対するテンギズ・アブラゼの怒りの強度を感じた。

いつの時代も暴力は「権力者」によって「大衆」のために幸福を守るという名目で「突出者」に向けて行使される。私たちは、そのことを忘れてはならない。

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