[コメント] 菊とギロチン(2018/日)
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『アメ・グラ』系のエンドロール前の履歴一覧の追悼はため息交じりだ。気づかされるのはこの連中が昭和初期の極右と瓜二つなことで、要人殺して一殺多生の方針と、財界への集り体質が被る(喜重の『戒厳令』が想起される)。一方、大西信満ら農民・元兵隊の在郷軍人会の面々は官憲に成り上がる。このアナキストと在郷軍人会の対照が本作の肝なのだろう。同じファナティック団体でなんでこんなに差異が生じたのか、映画は解説しようとはしないが、云わんとすることは伝わってくる。
本作の作劇は主役が途中でいなくなるという構成を取る。収監されたまま最後まで登場しない東出昌大もそうだし、韓英恵もそうだ。いっそ彼女ら在日コリアンの悲劇を主題に置いたほうがいいようにも思う(2017年小池都知事の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼文送付中止への正当な批判だ)が、映画の採用した方法はあくまで主役の退場だった。そして官憲は女相撲を粛清して映画は終わる。官憲だけが残ったのだった。
町中の映画館で天皇陛下万歳の連呼を聞くという体験は、映画鑑賞の安全地帯から放り出される禍々しさがあり、凄かった。(正力松太郎の名指しも凄い)。鑑賞名簿が公安警察に渡ったら、共謀罪で尾行されるのではないだろうか。その際は東出より巧く立ち回らにゃいかん、という意味で、本作は教訓劇かも知れない。こんなもの撮る監督を褒めてあげたい。
女相撲は『残菊物語』(39)に登場していた。花柳章太郎が都落ち零落の最中に出会う訳で、ミゾグチの描写は揶揄い半分、田舎ドサ廻りの典型としてのものだった。本作の「女が土俵に上がるのは神の怒りを買い降雨が期待されるため、飢饉時に重宝された」なる指摘は、この逸れものアジールの社会的位置を語って生々しい。そして雨は降るのだった。
木竜麻生の「強くなりたい」は、あのDV亭主投げ飛ばせるようになりたい、って云うのもあったのだろう(できなかったけど)。ここは琴線に触れるものがあった。あの亭主の野卑な造形は在郷軍人会の面々と通底する。女相撲もアナキストも農民に敗れた。2018年の相撲協会の土俵女性登場拒否事件と偶然にシンクロしたのは本作の誉れであり、日本史の秘孔を確かに捉えていると感じられる。
予算がなかったのだろう、関東大震災の描写は神代にも(宮崎駿にも)及ばぬ安手だが、直後の混乱の綿密な説明は説得的で勝る。突然出てきた脇役の長い長い描写が幾つかあり、もっと主役を掘り下げるほうがいいのではと思うが、まあそのような群像劇が志向されたということだろう。撮影は良好で長尺を飽きさせない(手ブレ効果やスローモーションは余計に思えたが)。砂浜のダンスの件などいかにも平凡になりそうな処だが、構図の才が名場面にしている。この場面で流されるアフリカンな音楽に、アナキストの夢想が表現されたのだろう。それは美しいが儚かった。
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