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[コメント] ジーン・ワルツ(2011/日)

音楽がかなり酷い。幾つかの箇所のカット割が不自然。山場で訪れるピンチが過剰にピンチ過ぎ、もはや笑える。菅野美穂の演技も、あまり良い方ではない。屋外で風吹ジュンとしみじみ語り合うシーンではなんだか生硬な演技に見えてしまう。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







だが菅野の、最後のカットで見せた美しさにだけは感動する。

菅野の人物造形が不手際に見えるのは、マリアクリニックで田辺誠一らと仲よくやっていた頃の回想シーンに於ける演技はCFで見せるような朗らかな表情なのが、態度を硬化させ、意識的に事務的な態度に徹している様子の現在パートと別人格に見えてしまうという不統一感にもよる。

尤もこれは、胎児を亡くしたらしい出来事から後の彼女の心境の変化を、映画自体が描いていないせいでもある。技術的なことも含めて、時間の描写が下手なのだ。例えば菅野が田辺と病院の屋上で対峙している時に過去の回想へ移り、再び戻るシークェンス等で、時間軸が混乱気味に見えてしまう。もう少し観客の側に立った編集ができないのか。それに、菅野の夫の存在が、言及されてはいてもあまりに希薄すぎるので、田辺との関係性も立体的になり得ない。

大森南朋は結局この映画の中でフォローが為されていないままの感があって、役の人物としても演じた大森本人としても、やや気の毒。西村雅彦は口をひん曲げて喋っているような粘着的な台詞回しがわざとらしく、憎まれ役としても人物造形があまりに浅い。大杉漣はバカみたいに泣く演技が、もうちょっとどうにかならないのかと思う。

最初のシーンでは、ホームビデオによる主観ショットが用いられているのだが、このアイデア自体は良いとして、その被写体となっている娘との会話のわざとらしさや、娘が突然欠伸をして「そこで欠伸かよ」と撮影者である父親が笑う台詞等、なんだか、ホームビデオらしい「自然体」を演出しようとする脚本、演技、演出の全てが却って作為的に見えて違和感がある。ラスト・シークェンスで再び同じ父娘のホームビデオのシーンが挿入される際も、撮影しながら父親が嗚咽する辺りの作為性には苛立ちさえ覚える。そもそも「自然体」などという高度な雰囲気を演出できるような繊細さなど微塵も持ち合わせていないのにそれを試みたのが間違い。

マーラー“交響曲第5番”第4楽章やらマスカーニ“カヴァレリア・ルスティカーナ”間奏曲やらにここまで似た曲を流すくらいなら、いっそ当該曲を引用してくれ。これらの曲になりそうでならない生煮えみたいな劇伴が気持ち悪くて仕方ない。ラストで小田和正の主題化が挿入されるタイミングも早すぎて、うるさく感じさせられる。『手紙』で挿入された“言葉にできない”はまだ許容範囲だったが、今回は印象が良くない。そもそも彼の曲は単体でのメッセージ性が強すぎるので、映画に挿入するのは危険なのだ。CFに使うには良いんだろうけど。

(評価:★2)

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