[コメント] あにいもうと(1953/日)
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本作は母親と仕方のない子供たちという『稲妻』の構図が踏襲されており、望まない妊娠という主題も繰り返されているが解釈は大いに違う。
別の居場所に理想をみる『稲妻』に対して、本作のキャメラは地方の町から一歩も出ることなく終わる。石ころ累々たる多摩川は越えられない境界をなしており、キャメラは川向うの東京を見ることもなく、堀雄二とともに電車にも乗り損ねる。この町の閉塞感が堀のうどん屋とともに圧しかかってくる。
浦辺粂子の母親は柔和でもう我を通そうとはせず何が起ころうと達観しており、悪く云えば関係性に積極的に埋没しようとしている(「年取ったねえ、感激を失っているよ」と評される)。あの稲妻をみたらこのようになるのだがこれが果たしてよかったのか。アンビバレントな造形に水木の批評がみえる。
出戻りの京マチ子は凸ちゃんのその後だろうか。三月後にバスで戻ってくる鮮やかさやクライマックスの白熱に、女の勁さを表現して見事、彼女のもうひとつの代表作だろう。もうどこが居場所というのではない、デラシネとしての勁さをフィルムに定着させている。
一方、山本礼三郎の父親への目線はおよそ冷淡。この時代に見放された老人は『噂の娘』など成瀬作品にときどき登場する幽霊で、救済の物語と直接絡もうとせずに自ら自堕落に崩壊していくのがますます亡霊めいている。元テキ屋という設定は同時代の東映任侠作品への皮肉なのだろう。冒頭に主役のように登場して収束で見放されるのが全く遣る瀬無い。救済の物語は重層化されてあるのだった。
畑を垣根で区切って細い路地を構築する美術はいかにも成瀬らしい。京が食べかけのアイスキャンデーをここにポイ捨てする件は現代では考えられないが、この時代ではしょっちゅうお目にかかる光景である(『稲妻』では凸ちゃんがスイカの種を口から庭に飛ばしていた)。高品格が端役で登場し、珍しく中北千枝子はいない。ガラス戸のパチンコ屋など、風俗の記録も貴重。
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