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[コメント] 借りぐらしのアリエッティ(2010/日)

宮崎駿落ちぶれし今でも、演出家としての手腕は確かであり、緩急の意味は理解しすぎるほど理解していたことは認めねばならない。米林の間延びした采配で語られる冗長にして緊迫感を欠いた物語は、しかし確信犯的に「起承転結」などというものを捨て去った、老いてなおひねくれ屋の語り部・宮崎によって、例の如く意味不明の雰囲気映画に成り下がった。
水那岐

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ヒロインであるアリエッティが健気な美少女であることは、もうこれを否定したら宮崎映画全体にダメを出す行為となることであるので、深くは追求しないが、その父やスピラーといった、いわゆる古風な道徳律を美徳として生きる男性が描かれたことは嬉しくはあった。彼らがファンタジーの世界に生きる存在であり、対する人間社会では相変わらず男は庇護される無力な存在であることの裏には、宮崎のペシミスティカルな絶望的視点は見出されはする。しかし、少なくともこうした男性像は歓迎できるものではある。

しかし、褒められるのはそこと美術、音楽の冴えだけだ。物語としては『ポニョ』で破綻の醜態を見せた宮崎の、ドラマツルギーも何も意に介さないヤマなし、オチなし、意味なしの惰性作である。そして、そこにありもしない「物語の核」をずんと据える。

翔は何故こんな台詞を前触れもなく言ったのか。「君たちは滅び行く種族なんだよ」この判ったような文句にアリエッティは怒り論争が始まるのだが、この無意味さはどうして繕えるものだろうか。『となりのトトロ』の父親はかつて子供の頃に見たゆえに妖怪たちを語れたのだが、アリエッティたちは古来からこの国に住んでいる妖怪と見做すことはできない。生活習慣の同じヨーロッパ系の人々ならば同居もできようが、翔がいくら王子さま的に俗世と隔絶された存在であったとしても、家政婦の俗物性のほうがずっとリアルなのは間違いないのだ。何故、宮崎はこの物語を日本の話に翻案したのだろう?

あまりの物語性のなさに、自分はトンデモなこの物語の暗喩を思いついてしまった。アリエッティたちは在日外国人のメタファーであり、だからこそ普通の日本人に正体を知られることを恐れるのだ。…まさかとは思うが。パンフレットにはもっともっともらしい解説が展開されているのだろうが、もし前述のアホな推測が当たっていたなら、宮崎はかなり食えないおっさんだ。ハードな現実を踏まえながら、無邪気な童話を展開するひねくれ加減にはついてゆけない。

絵と音楽のハーモニーを楽しみたい人なら、何も考えずこの作品を堪能できるのだろう。しかし俺にとっては、高畑勲の劇場版『赤毛のアン』のほうが絶対的に信用できるものだ。

(評価:★1)

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