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[コメント] 捜索者(1956/米)

暗闇に開かれた光の入り口に立つジョン・ウェインを内側から見つめる映画。「泣ける」という感想に対しては斜に構えてしまう僕でも、かのゴダールがそう言っているのは気になる。だが、画面の完成度の高さの反面、物語はどこか歪。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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上述の構図を取るショットは劇中で反復される。コマンチに襲撃されて焼かれた家の扉の内側から捉えられた、家の中で亡くなっているマーサの姿を見つけるイーサン(ジョン・ウェイン)。執念の追跡の果てに、浚われた姪のデビーを見つけるが、コマンチに襲われ、洞窟の内側から応戦するイーサン。再びのコマンチとの戦闘で、コマンチの一員になってしまったデビーを洞窟まで追ってくるイーサン。そして、ラスト・カットの、家に迎え入れられるデビーを見守りながらも、自分だけは扉の内に入らずに去っていくイーサン。

風来坊のイーサンにとって、全てを包み込む闇の中に留まる事は性に合わず、闇の内側はただ、コマンチから身を守る為の場所、或いは彼自身がその身をもって守るべき場所としてだけ在る。彼は一ヶ所に安住できない性格のようだが、家族という、守るべきものがその心の支えになっている事は、何となく窺い知れる。コマンチに同化したデビーを殺そうとしたのも、家族の心がコマンチに蹂躙され、屈した事への憤りなのだろう。

全篇の、劇的な効果を踏まえた絵画的な美しさと、厳しさの中にも忘れられていないユーモアは、貫禄あるゆとりで作品を包み込む。画面の完成度の割には、息詰まるような緊張で画面を圧迫していないのは、好印象。

とはいえ作劇的には、以下のように、幾つかの欠陥が感じられる。

まず、最後の最後で姪を救う事にしたイーサンの変心の唐突さ。善意に解釈すれば、その「分からなさ」に複雑な感情が凝縮されているのかも知れない。努めて深読みをすれば、デビーへの絶望の後、それまでは混血である事から邪険にしていたマーティンに遺産を譲ろうとした時、僅かに差別意識が緩んだとも言える。このマーティンから、あんたの家族はデビーだ、と言われたのが尾を引いていたのかも知れない。だが、これらに真面目に説得力を感じるには、このジョン・フォードの心理描写ではまだ丁寧さが欠けている。

また、デビーが浚われてから発見されるまでの時間の長さも、描写不足。途中で、原住民に浚われた女たちが、保護されても野生児のように異常な様子を見せる場面は、デビーの置かれた状況を想像させて巧いのだが、時間の経過がいまひとつ実感できないせいで、捜索にかける想いと、その結果としての徒労と失意や、マーティンを待ち疲れて別の男と結婚しようとする恋人の苦悩も、「お話」の一幕の域を出ない。

更には、最初に発見された時には、自分はもうコマンチだと言って、帰るのを拒んだデビーが、マーティンと再会した際にすんなり出て行こうとするのも意味不明。気が変わるのは別にいいのだが、その変心の描かれ方があまりにも淡白で、果たしてこれで映画として成立しているんだろうか、と考えさせられてしまう。

「ジョン・ウェインは嫌いだが、彼が最後に姪を抱き上げる場面では涙を禁じ得ない」というゴダール。こんなの観て泣くとは……素朴すぎるぜゴダールよ。むしろ、嫌いな奴がその頑固さを和らげるというギャップに感動したのかも知れないが、その辺の事情を抜きに観て、今も素直に涙できるほどの強度をもった作りには、なっていない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)赤い戦車[*]

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