[コメント] ハンサム★スーツ(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この映画の「単純さ」の最たるものは、人を外見の美醜で判断する事の悲劇を描く半面、「人のよさ」という善人度で人の価値を一元的に決定する姿勢。外見で判断され、中身を見てもらえない、という点では、美形も不細工も同じ悩みを抱えているのがこの映画の構図だが、このどちらでもない中途半端な容姿の人間、つまり、琢郎を痴漢呼ばわりする女たちが、性根の腐った人間として描かれている辺りに、アウトカーストとしての不細工の立場を誇張する為の恣意性を感じてしまう。
ハンサムスーツの機能を語るPR映像の中で、不細工の改善の他に、体に障害を負った人の回復という項目が含まれていた。これは、車椅子でも明るく前向きに生きる真介(池内博之)を、琢郎の一つの手本として置く意図があったのだろうが、仮に真介がハンサムスーツで再び歩けるようになりたいと考えて実行した場合、果たしてそれは、琢郎が、永久的に着用する為のハンサムスーツを選んだ時のような悲愴な決意に見えるだろうか。容姿の美醜と健康とは、別問題のように思えるのだが。
外見に関りなく、人としての中身を見てもらうのには時間がかかる、という事で悩んでいる寛子(北川景子)。彼女がブスーツで化けている本江(大島美幸)が琢郎に提案する「人の幸せを一つ見つけるたびに十歩進む」というゲームは、善意を一つ一つ積み上げていく事で、自分自身も前進できる、という、映画全体のメッセージが込められているのだろう。また、カリスマモデルの來香(佐田真由美)が、容姿の良さだけで連れて来られた杏仁(谷原章介)=ハンサムスーツ着用の琢郎に、モデルとしての覚悟を問う台詞を吐くのもいい。美貌の頂点に立つ女に、美貌だけでは無意味だと知る者の貫禄を与えている事で、映画の主張に一つ、説得力が増している。
だが結局、最後に本江の中から寛子が出てきた時に、彼女の美貌が琢郎への「ご褒美」に思えてしまう時点で、既にこの映画は破綻しているように思う。これは、琢郎=杏仁自身に、美貌だけで判断される事の苦しみを味わわせていないせいでもあるが、それ以上に、琢郎が寛子に失恋した後で、時間をかけて関係を築いてきた本江の、ブスであるがままでのチャーミングさが、殆ど全否定されてしまった形になっているからだろう。美しくなければ無意味、という価値観に反論するのは分かるが、だからといって、美醜とはまた別の、その人自身の容姿の個性などどうでもいいかのようなこの結末には、ちょっと待ってくれよと言いたくなる。或る人の顔と対面しながら築かれていった関係性というものは、外見だけではないにせよ、外見も込めた関係なんじゃないかと僕は思うんですが。
そんな訳で、僕は最近、お酢のCFに夫婦揃って出演する鈴木おさむを見るにつけ、「世の中、そんな簡単な話じゃないんだぞ」と、何か不機嫌にさせられるのです。彼の前に座って微笑んでいるのは、映画の最後にインゲン豆の皮か何かのようにひんむかれてしまった、当の大島美幸なのです。
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