コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ダークナイト(2008/米)

前作『バットマン ビギンズ』は“恐怖”を巡る重厚なドラマだったが、その“恐怖”と無縁なトリックスター、ジョーカーの登場が、闇の仮面を被った正義の限界を抉り出す。ヒーロー物の一つの限界へと到達した、選択、逆転、倒錯のドラマ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







バットマン ビギンズ』でブルース・ウェインは、犯罪者達によって愛する者を奪われた精神的外傷と、自らの抱える恐怖心とを克服し、今度は彼自身が、憎むべき犯罪者達にとっての恐怖の象徴へと変貌したのだった。だが今回の敵ジョーカーには、その恐怖が通用しない。バットマンがバイクで突進してきても「殺してみろ!」と挑発し、取調室でバットマンに拷問されても「怖くないぜ」と平然としているジョーカー。全てをジョークにして引っくり返す、笑う犯罪者。

冒頭の銀行襲撃シーンは、後から振り返れば、既にこれだけでジョーカーの性格の全てが表れていた。強盗団は、相手が用済みになった途端に掌を返して仲間を殺していく。「ボス(=ジョーカー)が、人数が減れば分け前が増える、と言っていた」という理由でだが、その結果、最後に残ったのは、当のジョーカーなのだ。相互不信の種を撒き、互いの敵意が発芽するのを見て楽しむジョーカー。去り際には、抵抗して負傷した銀行の男の口に爆弾らしきものを咥えさせて、そこから伸びる紐を、擬装用のスクールバスに結えつけて出発するが、これは爆弾ではなく、ただ煙が沸いて出るだけ。この肩透かしな落ちに見られるように、ジョーカーは快楽殺人者でさえなく、ただジョークで人の命を玩ぶ事が楽しいのだ。

自らの二面性に引き裂かれるデント(=トゥーフェイス)やバットマンと比べて、ジョーカーは、彼らのような矛盾や葛藤など持ち合わせていない。むしろ彼は、物事の裏と表を引っくり返す役割を担う。自分の顔の傷について「酔った親父が、母を刺してから、子供の俺を…」と話した時には、彼は心に傷負った男として、バットマンや後のデントと同じような境遇に思えるのだが、レイチェルには「顔に傷を持った恋人の為に、俺は自分の顔を…」と、全く違う話をする。愛する者を奪われて、別の自分になる、という点は、バットマンもデントもよく似ているのだが、この二人の境遇を茶化しているような、冷酷なジョークをジョーカーは放つ。

ブルース・ウェインは「バットマンも憎悪には勝てない」と呟くが、ジョーカーを駆り立てているのは憎悪といった類いの、分かりやすい感情ではなく、「面白いから」という、残酷なナンセンスであるように見える。最初は「マスクを脱げ」と、バットマンの、仮面を着けた正義、という在り方そのものを根本から問うような要求を突きつけておきながら、いざバットマンを売る男が現れると、それでは自分は小悪党でしかいられない、と、この男を殺せと市民に言う。これはもう、正義の味方がいて、巨悪がいる、というヒーロー物の構図そのものを「面白いから」と肯定する悪役、という、これ以上無いほどに皮肉な立場だ。これが、ジョーカーというトリックスターが、脅威的かつ驚異的な存在である所以だ。

ここでジョーカーが要求を引っくり返したのは、バットマン自身が“兜を脱ぐ”事が肝心だったのであって、つまらない小市民にバットマンが売られても、面白味に欠けるからだろう。彼は、「お前が仮面を脱がない限り、人を殺し続ける」と宣言して実行する事で、犯罪者の敵であるバットマンを、犯罪の元凶へと逆転させたのであり、そこに横から入った人間が事態を終わらせてしまえば、“バットマンとのゲーム”が台無しにされてしまう。

ジョーカーは、ゴッサムシティの市民に対しても、裏と表を逆転させた罠を仕掛ける。テレビで、命が惜しければ街から出ろと市民を脅し、「橋やトンネルにご注意を」と付け加えるのだが、実際に爆弾を仕掛けていたのは、橋やトンネル以外に残された脱出手段である、船だった。そして、二隻の船それぞれに、他方の船を爆破するスイッチを与える。一方は囚人達の乗る船、もう一方は一般市民、という、それ自体が裏と表のような組み合わせ。前者の船には当然殺人犯なども乗っている筈で、自分達が助かる為に平気で他人を殺す可能性が高いが、もう一方の市民の方では、その事を当然、予想している筈なのであり、「自分達が悪人の犠牲になるのはおかしい」と考えてスイッチを押す可能性が高い。まるで論理パズルやゲーム理論の命題のような図式。このように、ジョーカーの罠は相手に選択肢を与えるのが肝心なのであり、彼が自ら連続殺人を行なっていたのも、要はバットマンに仮面を脱ぐかどうかの選択肢を与える為の手段でしかなかったのだ。

常にこうしたトリックを仕掛けるジョーカーだが、「俺は策略家じゃない。策略家は支配しようとするが、俺は違う」と語る。その言葉に反して、彼は劇中で最大の策士であり、全体の状況を支配している。特に彼の予告殺人での、相手が最も安心している筈のポイントに罠を仕掛ける手の込みようは、策略以外の何ものでもない。だが、ジョーカーの立場で考えると、彼は支配している訳ではなく、他者に選択肢を与えているのだ。例えば、自分を愚弄したマフィアを騙し討ちにし、その口を切り裂くと、マフィアの手下たちに、へし折ったビリアードのキューを渡し、生き残った一人だけを自分の手下にしてやる、と言う。バットマンに対し「殺してみろ!」と挑発する彼は、自分の生死すら、他人の悪を引き出す為の道具にしている。予告殺人も、バットマンを誘い出す為の手段でしかないのだ。

最後のジョーカーとの決戦でも、人質はジョーカーのメイクに似たピエロの覆面を被せられ、ジョーカーの手下はドクターの格好、という、見た目と中身が逆にされている。バットマンの格好をして強がる市民達に見られるように、見た目やイメージと中身を倒錯させてしまう人間の性質を、ジョーカーは巧く利用しているのだ。そして最後には、逆さに吊られた状態で大笑いするジョーカーの顔が、上下逆さの映像でアップになる。逆転したものを更に逆転させて、一見するとまともなように見せる、この“倒錯”が本作の鍵と言える。

このジョーカーと対照的なのが、デントの、表しかないコインだ。これは、彼の台詞にあったように、偶然や運に結果を委ねず、自分の意志で全てを決定しようという信念の象徴だ。それが、ジョーカーによって恋人が奪われるのと同時に、コインの片側は黒く焦げ、彼自身の顔も半分はおぞましい焼け爛れた容貌となる。こうしてジョーカーは、“ホワイトナイト”であるデントを、コインの表裏で人の命を玩ぶ、歪んだ復讐の鬼にしてしまう。デントは、運が悪かったせいでレイチェルが死んだかのように言うが、実の所、ジョーカーが、人質に取ったデントとレイチェルの居場所を逆に言ったからなのだ。何か目的があってというより、恐らくはただのジョークである。結果、レイチェルを救いに行ったつもりのバットマンはデントに「なぜこっちへ来た!」と一喝される。この台詞からは、デントにとってレイチェルは、自分の命より大切な存在だった事が窺い知れる。自分の方が救われたのは、彼自身にとっても悲劇だったのだ。だが、「運は最も公正だ」と言うデント=トゥーフェイスは、実の所、ジョーカーの、運命のような気紛れさの手中で転がされているように思える。だからこそ、最後にデントの命と引き換えにゴードン(ゲイリー・オールドマン)の息子を“選択”したバットマンは、「ジョーカーの勝ちだ」と漏らさずにはいられない。

このように、至る所で逆、逆、逆が散りばめられているこの映画の中で、終盤、ジョーカーの仕掛ける逆転のトリックに対し、更なる逆転の選択による抵抗が試みられる。バットマンに先立ってそれを行なうのが、無名の市民である。ジョーカーから「相手が爆弾のスイッチを押す前に相手側を爆破すれば、お前達は助かる」というゲームを課せられた船内で、爆破スイッチを手にしながらも押しかねている男からそれを受け取った強面の囚人は、予想に反して(つまり逆転)、それを窓から投げ捨てる。もう一方の船内では、囚人の乗る船を爆破する事が「多数決」で「民主的」に決まるが、責任者は実際にスイッチを押す事に躊躇し、彼からスイッチを取り上げた男もまた、やはり押す事が出来ずに終わる。どちらも、集団の中から誰かがリーダー的立場を買って出る訳だが、囚人の方は、独断で“善”を選択する。もう片方の船では、民主的に下された決断を実行する者がいなかった事で、ジョーカーの望む結果に至らない。どちらもジョーカーの思惑を逆転させた点は同じだが、一方は、一人が選択を下し実行した事で、もう一方は、皆の選択を実行する一人の者がいなかった事による。反対の反対は表、という図式が、一つの船内に於いても、二つの船の関係に於いても成立している訳だ。

この“選択し実行する一人”の存在と不在という問題は、デントが語っていたものだ。彼は、バットマンを称えて、古代ローマの独裁官に喩える。「英雄として死ぬか、生き長らえて悪に染まるか」。だが最後には、復讐鬼トゥーフェイスと化した彼が犯した殺人の罪を、「人々には理想像が必要だ」と言って自ら肩代わりしたバットマンの選択によって、デントは表側では「英雄として死ぬ」事になり、バットマンは「生き長らえて悪に染まる」役割を担う。ここでも、表と裏の逆転、倒錯が起こっているが、今度はジョーカーの手によってではなく、バットマンの意志によるものだ。デントがトゥーフェイスに変貌したのは、この“意志”を放棄したからであって、顔が焼け爛れたからではない。バットマンは、古代ローマの皇帝のように、市民を守る事が目的であった筈の権力一極集中を続行して独裁者となる事なく、盗聴監視システムはフォックス(モーガン・フリーマン)の名(これがパスワード)によって廃棄される。

この映画は、誇らしげにヒーローの名を題名に掲げる事をやめ、最後、「The Dark Knight」という、「White Knight」とは違う日陰者の呼び名を背負ったバットマンを、闇へと去らせる。まるで小悪党のように警官と犬に追われて“逃亡”するバットマン。これほど無惨で、穢れ、孤独な、それでいて堪らなく美しい“敗走”をする後ろ姿を見せたヒーローが、かつて存在したか?。『バットマン ビギンズ』の最後は確か、バットシグナルが夜空に輝く映像があったと思うが、今回は、バットマンと街の絆であるその投光器が破壊されるのだ。バットマン自らが下したこの選択は、一度ジョーカーによって仮面を脱がざるを得なくなった彼の身代わりとして、「私がバットマンだ」と名乗り出たデントの選択への返礼であるようにも見える。デントが敢えて光の騎士から闇の騎士に身を落とそうとしたように、バットマンもまた、更なる闇の底へと身を落とすのだ。

ブルース・ウェインが、執事のアルフレッド(マイケル・ケイン)や、技術担当のフォックスと交わす会話はユーモアに溢れているが、この映画で最もユーモラスなのは、看護婦の格好で「ハーイ」と言って現れるジョーカーだというのがまたシニカル。クリストファー・ノーランヒース・レジャーらが創り上げたジョーカーは、ロックスターとテロリストを掛け合わせたようなカリスマ性すら感じさせる。口をモゴモゴさせるような、あの喋り方。ギャング達の前に現れた時の、あの感情の伴わないような、死臭の漂う笑い声。デントの前にナース姿で現れて挨拶する時の、あの、相手の顔色を覗うような狡賢さと同時に、ばかばかしさを愛する単純さがない交ぜになった表情。何やら、ジョーカーの表情や話し方には最初からあれ以外あり得ないような気さえしてしまう。

その夭折によって伝説と化した観のあるヒース・レジャー=ジョーカーが、圧倒的な存在感で殆ど全てを持っていってしまったせいで、他の登場人物がどうしても薄味に感じられてしまうのだが、むしろその事で、バットマンが最後に、自らの身を穢してまで虚構の善や正義を守った姿が印象に残るのであるし、アルフレッドやフォックスと交わす他愛ない冗談も、温かみのある場面となったのだ。また、アルフレッドが「だから申し上げたでしょう」と言う絶妙なタイミングや、フォックスが取引先の社のビルに、偵察用の携帯電話を仕掛ける場面、更にはゴードンが家族にすら死んだように装って実は生きていた、という策略には、「…と見せかけて〜」という“逆転”の構図が見出せる。また個人的には、僕はなぜか機械に同情しやすい性質なので、バットモービルが「グッバイ」と合成音声で告げ、バットマンを脱出させて自爆する場面も、印象深い。

バットマン・シリーズは、過去の監督ティム・バートンジョエル・シュマッカー、共に二作作ってバトンタッチしているので、クリストファー・ノーランも恐らく今回が最後なのではないか。少なくとも今作の結末は、“クリストファー・ノーランのバットマン”、更に言えば“マンガ的構図だからこそ打ち出せるリアル志向のヒーロー物”に、一つの結末、最終回答を出していた筈。

噂によると、アンジェリーナ・ジョリーが、将来ノーラン監督が続編にキャットウーマンを登場させるとしたら、是非演じたい、と語っているとか。これは、彼女に死ぬ気でヒース・レジャーを凌ぐ意志があるなら、悪くない案かも知れない。今回、バットマンは正義の執行者という立場すら失って、真の闇に身を落としたが、彼と同じく「人は殺さない」を信条にし、尚且つ、大富豪のブルース・ウェインとは対照的な、下層を這いずり回る生活をしていたキャットウーマンは、バットマン復活の何らかの契機になり得るキャラクターに思える。

アメリカでは、正義の為には暴力も厭わないバットマンの姿をブッシュ大統領に喩える向きもあるらしい。だが、ブッシュがバットマンのように、敢えて汚名を被ろうとするような自己犠牲的な人物だと考えるには、ブッシュに対してかなりの善意が必要だろう。バットマンと違い、“例外状況”への対応としての盗聴監視システムを放棄する様子も見られない。むしろ、劇中のバットマンの台詞「ジョーカーの勝ちだ」は、ジョーカーをビン・ラディンに換えれば、実際これは、物理的にはテロとの戦争に勝利したかのようなアメリカに投げられていた言葉だ。僕自身はテロを擁護するつもりも無いのだが、テロリスト側から見れば、犯罪者の汚名を被って世間から姿を隠すバットマンの姿は、ビン・ラディンと重なるものだと映るかも知れない。まさにこの映画そのものが、物事には常にコインの如く「表と裏」があるように、いかようにも解釈し得る懐の深さを持っている訳だ。

ジョーカーの存在が大きすぎて、他の部分がやや痩せ細り気味に見えてしまう点は、この「他の部分」を満たしていた前作へのアンチテーゼとしての本作、という視点から見ればやむを得ない所もあったのだろう。また前作同様、格闘シーンがやや雑に流れてしまう箇所が見られたり、舞台である街が、ゴッサムシティとしての世界観の構築が殆ど為されていない事に、少し寂しさを感じたりはした。ノーラン版バットマンは、アクション映画というより、特殊なクライム・サスペンスといった観がある。ヒーローが犯罪に立ち向かうその手段そのものが私警団として犯罪であるという矛盾。「バットマンを、飽く迄も生真面目に、現実社会に当て嵌める」という命題を、ノーラン監督はその二作によって見事に成し遂げた。その事に敬意を表して、5点を献呈したい。

[2009.08.18 追記] 公開から一年。殴り書きのようにひたすら書きまくった己がレビューにやや呆然としてしまう(笑)。 再見してひとつ思ったのは、この作品でのバットマンは、やけに犬に襲われているな、という事。これは劇中で語られる、「バットマンの限界」(=憎悪)のメタファーではなかったか。序盤での、バットスーツを噛み破る犬の牙。バットマンも、鎧の中は生身の人間であるという限界。最後の決戦でジョーカーがけしかける犬たち。バットマンは、そのジョーカーには勝ったかに思えたが、結局は自ら、警察犬に追われる事を選ぶ。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (3 人)chokobo[*] おーい粗茶[*] 浅草12階の幽霊[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。