[コメント] トゥヤーの結婚(2006/中国)
「働き者」というリアルな価値観。
昔、「働き者」って言葉がリアルで価値あるものだった時が、日本にもあったな、ってことを思った。(たとえば「おしん」なんか。)
トゥヤーは働く。馬に乗る。水を汲む。羊を追う。食事を作る。子どもを育てる。駱駝で駈ける・・・。トゥヤーは人柄が良い、ってことになっているが、それは「働き者」だから、っていう1点にかかっているように思う。(思い出すよ。私が子どもの頃育った農村では、年頃の女の子相手でも「あの娘は働き者だ」っていうのが最高の誉め言葉で、「怠け者」がとんでもない罪悪のように語られていたのを。)
一方、トゥヤーに比べて、出てくる男たちはみんな働かない。バータルはそりゃしょうがないとしても(でも食事くらい作れるんじゃねー?)、センゲーの労働には計画性がないし、幼なじみの求婚者は働かないでお金を得てるし、ほかの求婚者たちは言わずもがなだし。トゥヤーはもちろん母性の強い人だが、根本的に、しょーもない男たちへのあきらめがあると思うな。だから逆に、バータルもセンゲーも子どもも、全員まとめて引き受けるんだ。だって、働き者、ってそういうものだから。
もちろんトゥヤーは、働き続けなければ生きていけないのだ。だからトゥヤーは一瞬たりとも足をとめず働き新しい夫をさがすのだ。映画を観ている私たちは、トゥヤーの人生の選択についてグジグジ考えるわけだが、トゥヤーはそんなことを考えたり振り返ったりしないのが、なんかおかしい。頭でなく手足を使って考える人、トゥヤー。そんな人生を、私たちが幸せだとか不幸だとか言うのは不遜だ、っていう気がしてくる。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (2 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。