[コメント] セブンス・コンチネント(1989/オーストリア)
映画を見終った人むけのレビューです。
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実際の事件に想を得てということもあり、明確な解釈、説明は一切されていない。各自が自由に考えれば良いというスタンス、すでにハネケ独特のスタイルは初期作においてほぼ確立している。
ただ、ひとつ解釈を誘うような大きな特徴がある。モノとモノを動かす手の執拗な描写。まるで人間の本質が顔の表情ではなく、物質と手の接触点から生まれている様な描写。車の清掃マシーンに閉じ込められた人々の描写は、閉所恐怖症を誘引する以上に、モノに囲まれ身動きが取れない圧迫感を表している気がする。「物質に支配される人々」。大口を開けて閉じるガレージや家の扉の、まるで何か見えない意思がそこにあるかのような存在感。
結局この悲劇(?)の理由は明らかにされないが、ラストの破壊行為はこの描写から意外とすんなりとつながる(気がする)。物質からの開放。ただ、この破壊行為のシーンでさえクローズアップされるのは人物の手であり、それらの描写は開放される爽快感や、小気味良いカタルシスとは到底無縁であったりする。そして何より重要なのは水槽の破壊と魚の死。思うにその描写が及ぼす影響を最も深刻に受け止めてしまったのは、娘ではなく母親だったのではないか、と。その場面で死を認識することで「死ぬ」ことができた娘よりも、死を認識したことで後戻りが出来ない生の末路を予感してしまった母親の方が、よりその事態は深刻であったように思えた。
世界の全てから身をふりほどき、身包み剥がされた己の卑小さと対峙することの恐怖。個人的にこの映画に感じたものは、そういうものであった。物質的、精神的な全てのしがらみから開放された己という存在に果たして何の意味があるのだろう、というようなことを。
それにしても、よく理解できなかった(というか感覚的にわからなかった)のが、事故とその後の洗車のシーン。一つのターニングポイントであることは分かるけど、やはりその心情の変遷がよく分からない。ただ、それ以前のシーンで印象的だったのが、食卓を囲むシーンの中で弟が泣きだすクダリ。その弟の頭を抱く手は、相変わらずモノを操作する条件反射的な手つきと大差はないのだが、実はわが子のように頭を抱くことによって、彼女自身自覚のないままに、胎内に何かの病の種を密かに植え付けてしまったのではないか、と。
(2007/2/11)
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