[コメント] 寝ずの番(2005/日)
本作でマキノ雅彦を名のる監督の津川雅彦は、ご存知のように俳優沢村国太郎と女優マキノ輝子(智子)の息子で、祖父は日本映画の黎明期にあたる大正の終わりから昭和の初期に活躍した映画監督で製作者の牧野省三だ。そして、省三の長男で娯楽映画の名匠マキノ雅弘監督は雅彦の伯父にあたる。
そのマキノ雅弘の自伝に「映画渡世 天の巻・地の巻」という本がある。まさに、日本映画界を渡り歩いた雅弘の波乱万丈のエピソードの中で、彼が窮地に追い込まれると必ず登場するのがマキノ一家と呼ばれる人たちだ。たとえば、僅か数日で映画を仕上げなければ封切りに間に合わないという状況の中で「国太郎兄が快く出演を引き受けてくれ、輝子姉が陣中見舞いにスタジオで炊き出しをしてくれた」、あるいは製作費が底をつき借金での撮影が続くなか「甥の雅彦と裕之(長門裕之)が忙しいなか応援に駆けつけてくれた」といった逸話が何度か登場する。さらに、その後ろでは牧野省三時代からの脚本家やカメラマンなど多数のマキノ一家と呼ばれるスタッフが彼を支えているのだ。
そこには、映画という芸道の中で家族としての絆と、職業人としてのプライドが融合した独特の人間関係が成立していた。本作で俳優津川雅彦が監督マキノ雅彦として選んだテーマは落語家一門の通夜であった。それは、家族と職業人の価値が融合し出来上がった不思議な集団、すなわち「一家」が凝縮された世界だ。まさに、マキノ一家の末裔としての面目躍如たるところだろう。
そして、延々と繰り広げられる艶話し、下ネタ、猥歌。家族という関係の中でこのような話題は当然のことながらはばかられる。では、職業集団の中ではどうであろう。一歩、職場を離れれば個に戻ってしまうサラリーマン社会では、せいぜいガード下の焼き鳥屋で数人の男どもが小声で語ることはあっても、男女が集って大らかに心地よく謳いあげることなどまれであろう。
職業を人生そのものとして生きながら擬似家族を構成し、常に男であり女であることを謳歌し家族のしがらみから解放された関係。こんな集団が、いったい今の日本のどこに、どれぐらい存在するのだろうか。この下世話な性をめぐる戯言を共有できる関係もまた、我々日本人が失って久しい貴重な財産だということにマキノ雅彦監督は気づかせてくれた。
監督は、爆笑につぐ爆笑映画を目指したのだろうか。そのせか、メリハリの無さが見る側の余裕を奪ってしまった感がある。いま少し、エピソードの展開に緩急をつけ、笑いと情の演出に間が生まれていれば、しみじみとした味わい深い作品になっていたのではないだろうか。次回作が楽しみだ。
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