[コメント] 三年身籠る(2005/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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冒頭、冬子がひたすら掃き掃除をしつつ、一つ一つの小さなゴミが気になってしまい、「このままいったら…」と、自分が山奥まで入って、どこまでも掃き掃除を続けている所を想像する場面は、彼女の性格がいきなり提示されていて、ちょっと面白い。完全主義者で潔癖で、自分の理想の状態しか受け容れられないから、全てを延々と引き伸ばしてしまうという事。その結果、三年身籠る事になる。夫が愛人の許に行ってしまうのも、そんな彼女に付き合いきれないからだというのは、それと示されなくとも想像のつく所だ。耳栓をして、外部の雑音を断ち切り、お腹の中の子の純粋さを守ろうとする冬子は、そんな彼女自身が、子宮の中で守られたい子供のような存在なのだと言えるだろう。そんな冬子の行動自体は異常だとはいえ、産婦人科の待合室のテレビで、幼児虐待のニュースが流れる場面など、子供を持つ事に関して誰もが感じる不安を代表してもいる事が理解できる。
夫の徹が愛人を持っている事を知りながら、敢えて超然とした態度でいた冬子が、実の妹・緑子が徹の浮気相手になった時、女の命(?)である髪の毛をハサミで切り落とす場面に、冬子の心境の変化、つまり、徹と自分の関係を、守るべきものとして意識するようになった事が、表れていたように思う。加えて、罪責感からか徹が、ハサミを持たせた妻の前で下腹部を晒し、「切っちゃってくれ」と言った時、妹に対してとは逆に、「この子のお父さんが居なくなるから」と許す場面は、「妻と子を守る事が、男の義務なんだ」と言って自分を病院から連れ出してくれた夫への、一つの回答のようでもある。この場面は、緑子が、「女になってくれたら、喧嘩もしないでいられるから」と女装させていた愛人に、「女みたいじゃダメ、女じゃないと。でも、貴方が好き」と吐露する場面とも連動して見える。男と女の越えられない壁を認めつつも、それこそが大切な接点でもあるのだと、思えるかどうか、という事。その分かれ目として、子供という要素があるのかも知れない。だからこそ、「母親にはなりたくない、いつまでも私は私でいたい」、と言う緑子は、男と女の境界線に耐えられなくて、愛人に「女になって」と言ってしまうわけだ。
それと対照的に、夫を父親として認め、彼自身にも父親としての自覚を持たせた冬子が、見知らぬ父への出されざる手紙を、遂に「さようなら」で書き終える場面は、ベタながらも、印象に残る。この手紙を入れていた缶には、過去に付き合った男との写真が入れられていて、父親不在だった冬子が、男を男として受け入れようとしつつも失敗してきた歴史が匂わされているように思える。この缶をたまたま発見した徹は、手紙には気づかず、写真に関して反応し、「お腹の中の子は、他の男と作った子じゃないのか」と責める。しかし、自分の子を自分の子として認める事で、そうした不安定な関係にも、一つの句読点が打たれるわけだ。この映画は、母性云々よりも、父性=男性性の確立とは何か、というか、男よ、ちゃんと確立してくれ、という願い、のようなものが感じられる。そして女は、それを受け入れる体勢でいないとね、というような感じなんですかね。考えてみれば、緑子が父親ほど年の離れた男と愛人関係になるのも、彼女なりに父親不在の欠落感を埋めようとしていた事の表れなのかも。それが、オジサンを君付けで呼んでみたり、「男は平均とか規準とかを気にしすぎ」と言いつつ、他の女との胸の大きさの違いに苛立ったりする所など、むしろ彼女自身が男からどう見られているかを過敏に気にしている様子だったりと、何かと無理をしているのが見て取れる。
にしても、正直、大きくなった子が、素っ裸でトコトコ歩いてくる場面は、感動というより、何か不気味に感じられた…。まあ、監督の発想の素、「人間の子供が、動物の子のように、或る程度自立した状態で生まれてきてくれたら、どうなんだろう?」という思考実験は、面白い発想だと思う。それが充分に活かしきれていたかどうかは、やや微妙な気はするんだけど。意外と保守的な家族観の確認のようにも感じられるというか。もう少し、新しい観点からの捉え直し的なのが有れば良かったかな、と。
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