[コメント] 酔いどれ天使(1948/日)
事は基本的に志村喬の視点で観測されながらも、絶えず三船の視点に憑依したがる衝動がある。ふたりともムラっ気で分かりにくいのだが、病状に応じて態度を緩急剛柔させる志村に三船がドキドキしてくるのである。
何があっても三船が引き寄せられてしまう志村の沼は、図式化された諸悪ゆえに三船個人の課題を社会問題として志村に把握させる。しかし悪の中心だからこそ三船が志村の沼に吸引されるのはまずい。志村と三船の間で往来する視点は問題の曰く言い難さの構造的なきしみである。
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