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[コメント] レイクサイドマーダーケース(2004/日)

タイトルバックで既に駄作臭が。ドキュメンタリータッチでもないのに、単語が聞きとれなかったり、つっかえた台詞や、カメラの急速で不自然な動きが放置されているのも変。凝ったつもりの瞬間的なショットの挿入は効果薄。スローモーションの使い方も通俗的。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







英里子(眞野裕子)の遺体の顎と顔を潰す場面では、ショットの構図が、行為の禍々しさを充分に演出できていない。遺体を湖に沈める為に並木(役所広司)と藤間(柄本明)が湖上のボートに乗っているショットも、遠くに点々と灯る明りが微妙に大きすぎるせいで、広い湖ではなくプールにでも浮かんでいるように見えてしまう。こうした詰めの甘さがあちこちで目立つ。

子供たちが殺人犯、というオチには特に驚かないのだが、その肝心の子供たちにしても、殺人という行為の恐ろしさと対照的な無垢さや優しさという形でも、受験という目的の為には手段を選ばない冷酷さという形でも、親の期待に応えようとする健気さなり重圧なりという形でも、殆ど演出できていない。親たちが「分からない」「理解できない」とお手上げ状態になる存在としての説得力もほぼ皆無。

もちろん、最初の面接練習のシーンでの、迷い込んだ蝶に気をとられる子供たちの様子と、その蝶を踏み潰すという行為によって、受験の邪魔になる者は始末する、という冷徹さは示されてはいるし、犯人を密かに示唆しているともとれる。潰された蝶が、床と靴の間にやたらに粘っこい糸を引いているショットは、殺された英里子が運び出されるシーンでの、彼女の髪が血で床にこびりついているショットと照応し合う。また終盤での、犯行現場に残されていた足跡がどの子のものか分からなかった、という親たちの台詞は、「靴はどの子のも同じ」という点で、子供たちの置かれた状況の同一性の暗喩となり、靴で踏む、という点では、蝶を踏むという行為を密かに示唆しているようにも思える。

靴といえば、並木家の娘・舞華(牧野有紗)が、拓也(馬場誠)の靴の紐を結んでやる場面もあった。その様子を見た関谷(鶴見辰吾)は、講師(豊川悦司)の前でわが子が幼稚さを晒した事を悔やんでか、「何やってるんだ…」と、こわばった表情を見せる。事件の真相を知った時、並木はこの場面での娘の姿を思い出していた。「靴の紐を結んでやる」という心優しい行為は、だが、靴の紐をしっかり結べるという自立的な行動力が、蝶を平然と踏み潰して笑顔を作れる冷徹さと、表裏をなしているのかも知れない。

また、並木は最初から、受験の為に、別居状態の妻との円満さをとり繕ったり、自分が望んだわけでもないのに「本校への志望動機」をそれらしく言ってのける事が煩わしげであり、受験の為に殺人を隠蔽する事にも憤ってみせ、アウトサイダー的立場をとっているが、その彼自身、妻子に対し、自分の浮気を隠しているのだ。他人の欺瞞を告発する彼自身、別の欺瞞を抱えているわけだ。彼の愛人が、受験の欺瞞を突こうとして殺されたのも、並木が自分自身に対しても隠蔽しているように見える欺瞞を浮かび上がらせる出来事として位置づける事もできる。

そうした全ての欺瞞を可視化させるように、最後に英里子の遺体が浮かぶ。観客は、彼女が顔面を潰される様を直接には見ておらず、闇の中に響く音だけで体感していた。ラストで並木が「本校への志望動機」を従順に練習する様子や、それに続く、美しいままの英里子が森の緑の中を漂う光景は、静かに事態が集束していく事を、いったんは観客に予想させる。だが、英里子の、潰れて歪んだ顔、腐敗した顔、剥き出しにされた頭蓋骨、という直接的な映像によって、観客自身が忘れようとしていた惨事が眼前に突きつけられる。

だが、このラストシーンの、悪い意味での即物性にしても、蝶が踏み潰されたショットでの、不自然な粘液量にしても、個々のショットの説得力の無さは一体どうしたものか。素材は充分に揃えられているのに、青山真治の演出は焦点が定まらない。総括して言えば、いかにも頭で考えて作ったような、地に足のついていない脆弱さが終始つきまとうのだ。

(評価:★3)

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