[コメント] ボディガード(1992/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
フランクが、レイチェルに浴びせられる照明の眩しさに悩まされる場面などは、二人の立場の違いを如実に語っている。
フランクは冷静さを保つ為か酒は飲まずにオレンジジュースで通す男だが、或る場面で、そのオレンジジュースに酒を注いで飲んでいる。ポーカーフェイスの暗喩としてのオレンジジュースに隠された、一個の男としての人間性。
フランクの人間味がより顕著に表れる、父の小屋に皆で非難するシークェンスは、まず、それまでの都会の煌びやかさや騒々しさから打って変わっての、真っ白な雪原の静けさが沁みる。番犬としての役を果たす犬も、レイチェルの邸宅に居た犬とは対照的に、小さくも健気な犬。木の温かみのある、慎ましくも親密な空間。
フランクの父はレイチェルが大スターである事も知らない。絶えず視線に晒され続けているレイチェルが、本当にプライベートなひと時を過ごす場面だ。彼女は、自身の邸宅に居る時でさえ、宣伝担当者によって、最もプライベートである筈の寝室を豪華に飾り立てられ、そのイメージ用の寝室に変質者が侵入したせいで邸宅全体が厳戒態勢、工事の音と監視カメラに侵略されてしまっていた。
食事の支度をするフランクの父は、レイチェルに、食器棚のあるその部屋が「あいつの母親が使っていた時のままだ」と語る。レイチェルは、窓の外に、息子がフランクと共にボートに乗るのを見つけて「あの子、泳げないのよ」と心配する。ここで、母という符号でレイチェルは、フランクにとっての個人的なポジションに乗っかる訳だ。続いてフランクの父が語る、「レーガン暗殺未遂の際は、母親の葬儀に出ていたので非番だった」という話。当然この話は、フランクの「恐れているのは、肝心な時にその場に居ない事だ」という台詞とリンクする。職責と、個人的な愛情との葛藤。この葛藤はレイチェルとの関係に於いては、個人的な愛情と職務の対象との一致、という新しい形で反復されるのだ。
さて、こうした真にプライベートな空間で安心していた所で、レイチェルの殺害を企てていたのが彼女の姉ニッキーであったという事実の発覚。その前夜の場面では、ニッキーはフランクを誘惑しようとして拒まれ、翌朝には一人、「イエスは私を愛している」と歌っている。その背後から近寄って来たレイチェルは声を合わせて歌うが、ニッキーの清楚な歌声に対し、レイチェルのそれは力強くアピール性のある声だ。レイチェルにとっては、共に音楽を始めた姉への愛情表現であるのに、それが姉にとっては残酷なものであるという事。
ニッキーは、レイチェルの息子に危害が及びかけたのを目の当たりにして改心するのだが、これはつまり、スターとしての、パブリックな存在としてのレイチェルを消そうとしていた事が、その息子という、ニッキー自身にとってもプライベートな存在である対象に及んだ危険によって、事態が別様のものに転じたという事だろう。
だがレイチェルも、見られる事はもはやそれ自体が一つの殉職のようにも見える。暗殺の恐怖を押し殺して舞台に立った結果、ファンにもみくちゃにされたり、アカデミー賞授賞式での、彼女を狙う銃口が他ならぬカメラに取りつけられていて、撮影を装って狙われている事など。だからこそ、授賞式に出たレイチェルを庇ってフランクが殉職しかけるのも、二重の意味での「身代わり」なのだ。彼女の代わりに撃たれる事と、彼女の殉職を肩代わりするという事。
そのフランクは当初、レイチェルの危機感の無さや傲慢な態度に辟易しており、彼女と買い物に出た際も、試着室から「こっちを向いて」と話しかける彼女の方を向きたがらない。これは、警護に集中しようという態度であると同時に、試着室で脱いでいる女、という所に意識を向けまいとしているようにも見える。しかし、後の場面でフランクは一人、レイチェルのミュージックビデオを一心に見つめていて、彼女に呑み込まれそうになっている。その様子を、窓から見ているレイチェル。視線を避け合っているかのような二人が、間接的に見つめ合っているような場面。
思えば、冒頭で一仕事終えたフランクが帰宅する場面では、玄関口に沢山の郵便物が重ねて置きっぱなしにされていた。仕事のせいでプライベートな時間が奪われているという点では、フランクはレイチェルと同じ立場でもある。
レイチェルは、姉が殺された事で、死の恐怖に抗って授賞式に出席する。この映画では、フランクが自らを殺して職務を遂行している姿が目立つが、レイチェルもまた、彼に劣らぬ決意で光の下に立ったのだ。
また長々と語りはしたけれど、別段この映画を気に入ったという訳ではなく、ただ地味に手堅い演出であったという、それ以上でも以下でもないな、と。地味で面白味の無いケビン・コスナーにはハマリ役だったのかも知れない。宣伝で聞いた歌声が耳にこびりついて嫌々、と思われているような所謂「大ヒット・メロドラマ」というのは、世間で持て囃された反動で必要以上に腐されたりもするけれど、実際観てみると大抵、普通の出来。
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