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[コメント] ジュリアン(1999/米)

何で俺みたいなのが生まれちまったんだろう、と。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







精神分裂病の青年ジュリアンとその家族の物語。だが「物語」とは言っても、そこにあるのは連関を欠いた挿話の列挙と、メロディとリズムとが交錯する映像だけ。その主眼に置かれるのが精神分裂病の青年とは言っても、それは指摘されてはじめてそうかと思えるくらいで、映画を観ているだけでは「分裂病」という言葉は浮かんでこない。青年は小さな閉塞した日常の中で小児的な戯れのような生活を送り、その家族もまた彼と大差ないひきこもりのような生活を続けている。一家の親父(ヴェルナー・ヘルツォーク)は、凡そ年甲斐もないくだらないことを繰り返しながら息子達の心身を粗暴な振る舞いでいたぶり、息子達(ジュリアンとその弟)はそんな親父に抗うだけの力すら持ち得ず、社会性の欠如したその場所(家)で虚しい日常を繰り延べていく人生を送っている。

彼らのそんな日常の挿話を列挙しながら映し出していくこの映画が、けれどそれでも魅惑的でありうるのは何故か。それはおそらく、映画自体もまた彼らの(目的もなく、規範を欠いた)分裂した日常を映し出していくに相応しい分裂を体現しているからではないだろうか。視点、というよりも視界がいつも揺れ動く。方法論として選択されたものでもない、その場の調子に寄り添うような自由な視線(それを方法論と言ってもよいかもしれないけど)。「映画」など意に介さずとも、己の存在する世界への眼差しさえしっかりしていれば、映画は撮れてしまうものなのかもしれない。ブラウン管画像が朧に映し出す氷上を舞うスケーターの女性の影、絶え間なく回転し続ける少女、傘を差しながら軽やかに舞うクロエ・セビニー、そしてやはり氷上の彼女の面立ち。

光、その集積。だがそこに集積されて映し出されている光は、フィルムに直接焼き込まれた自然光の影ではない。そこに焼き込まれて、今一度人工的な光を受けて映写されているのは、情報として圧縮されて再現された画像の影。だがそれでもそれは存在の面影を宿す。存在? そう、存在(していること)。それは「人間」ではない。勿論「人間」否定でもない。そんなモノはもとより存在していなかったのかもしれない。

近親相姦の罪の果てに生まれてくるはずだった己の分身は、けれど死んで生まれてきた。世界は蘇らない。

(俺はこういう虚勢されたセカイが好きなのかもしれない。)

(評価:★4)

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