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[コメント] 恋の病い(1987/仏)

「瞬きの不意打ち」

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







とは、この映画のパンフレット(何故か手元にある)に寄稿された川口敦子という評論家のナスターシャ・キンスキー(以後ナタキン)を評しての言だが、これは全く正しい。

曰く、

「画面が彼女の感情を捉えて昂まりかけた時、発作的といいたい位の間をもってあの瞬きがやって来る。はりつめた糸をぷつりと断ち切り、見開かれた視線が放棄されるその瞬間、演技も、女優であることも忘れたかのような無意識の瞬きは、生なましくも大胆に、素顔を画面に挿入した。しかも何とも奇妙なことに、そうすることをきっかけにして、彼女が演じるヒロインはきっと鮮やかに息づき始めているようにも思えるのだ。」

そうなのだ。このひとを広告的な凡庸な美人アイドル女優、あるいは旧来的な往年の大女優というイメージから微妙にズレた独自の存在足らしめていたのは、この「瞬きの不意打ち」のような存在の俊敏さなのだ。大体このひとは映画の中で誰か人間を演じていても、いまいち「内面」というべきものを感じさせないところがある。この映画にしたところで、ヒロイン・ジュリエットが何故に二人の男と恋に落ちるのか物語を追っているだけではよく分からない。何故この女はこんな行動に出るのか、「内面」という物語的脈絡に則った説明を映画はあまりしてくれない。だがそれでも納得してしまえるのは何故なのか。それはひとことで言って、それがナタキンであるからだ。その容貌は二人の男を一目で虜にする美貌でも、その肢体はまるで少年の如きスレンダーさ。男をつかまえればさっさと子を孕んで家庭を持ちたがるような安産型でもなく、かといって男達の俗な視線を過剰に意識せざるを得ない様なグラマーでもない。つまりその肢体は自由なのだ。自己の欲望に素直に準じて思うように振る舞える身の軽さがあり、男達の視線を受け容れ受け流しながら動ける強さがあり、つまりは停滞しない。「内面」というのは映画のキャメラという視点から見れば存在の停滞に生じる一種の澱みだと思うが、俊敏に自由に動けるこのひとは、「内面」という澱みに脚を取られない。映画が彼女をそうさせたのか、彼女がそうだから映画もそうなったのか、どちらが先かは分からないが、一つだけ言えるのはこの映画は彼女がナタキンであればこそ成立する映画であったということだ。彼女がそこにいれば、あとは「内面」の詳述など要らない。彼女の生い立ちの物語など、「彼女は愛に飢えている」という友人のちょっとしたセリフや、ベッドから跳ね起きた時の「ママ」というほんの些細なひとことだけで事足りてしまう。

ナスターシャ・キンスキーという女優が、80年代に於いてアイドル的存在であったことは確かだと思う。その美貌とスレンダーな肢体は実際流行を身に纏わせるに格好の生けるマネキンであったかもしれない(この映画でもじつにいろんなファッションを身に纏う)。けれど、具体的な映画の中に今も残るその存在の俊敏さ、「瞬きの不意打ち」は真っ当に映画的なものだと思う。それは何より見ていて「面白い」。『溝の中の月』の全くツクリモノめいた「ファム・ファタール(運命の女)」も、『マリアの恋人』の聖母サマと化す田舎娘も、等しく彼女の顔なのだ。

(評価:★3)

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