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[コメント] 愛のコリーダ(1976/日=仏)

性交とは、つまり性器を交えること。何故にそれは隠蔽されねばならないか。女が男をモノにする(女にモノにされてやる男の)映画。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







男と女の出口ナシの密室劇。実際監督は藤竜也松田暎子と三人きりで篭り切って撮影した時もあったという。互いの肉体を覗き込むうちに、この世の何処にもいくあてがないことを知る。執拗な貪り合(愛?)の果てに勝利したのは女、その性器であった。だから、女にウケがよくて男はエレクトし難いというのも故のないことではないかもしれない。男の視線が欲望するのは、女の肉体を攻撃すること、あるいは女の肉体によって庇護されることであって、女に男としての自己を喰われてしまうことではないから(と、思う)。多分男の視線は、男の性器を対象として見詰めることに慣れていないのだと思う。それはナルシシズムの幻想を仮託する自前の武器(得物)ではあっても、それ自体を対象とすべきモノ(獲物)ではない。

かつての日本版では、定が吉の首を絞める場面で画面の真ん中にある性器を映し出したくないが為に中央部がまるごと削除され、その上下を縫合するという暴力的な改変が施されていた。男女の性器が結びつき、男の性器がついに男の体から切り離され(放され)て女の性器に喰われるまでを描く映画(*)なのに、それは酷い。

この映画は「芸術」だから保護されるべきなのだという理屈ではなく、端的にそれは無神経過ぎるから、マヌケを露呈することだからやめた方がよい(と、思う)。

*)吉が定の促しによって年配の芸者と“やらされる”場面は、女に喰われる男の恐怖が滲む。吉は定によって、その存在を少しずつ喰われる性器そのものへと調教されていく。

(評価:★4)

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