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[コメント] 南の島に雪が降る(1961/日)

明らかに狂った設定だが何が狂っているかの探求は放棄され、演劇って素晴らしいと画面の向こうでナルシスティックに感激するばかり。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







だいたい何で演芸やっているのかが判らない。包囲されてカモフラージュのために道路普請しているぐらいなら演劇でも、ということなのか。実話だから仕方ないのであるが、実話自体が狂っている。そして映画はこれを狂っているとまるで示さず、演劇って素晴らしいとナルシスティックに感激するばかりなのだ。

劇場や大道具小道具がやたら本格的になるのも狂っているという印象をいや増しに増す。そんなものに大金かけて軍隊は何をやっているのか。想像だが原作で主演の加東大介が、映画の脈絡整えようとしている製作者に対して、いや事実はこうだったのだと横槍いれて採用せざるを得ず、無茶苦茶にしたんじゃないのか。せめて侘しい舞台のほうが感慨が湧いただろうに。

衛生兵である加東が演芸部隊の隊長に選ばれるのも判らない。兵隊の半数は傷病兵なんだろ。衛生兵を減らすという無茶な判断が下され、加東は嬉々としてこれに従う。何も共感は覚えられずただただ異常である。

本作で興味深いのはフランキー堺小林正樹らの全滅したと見做された小隊であり、その村八分の残酷さが異様なのだが、映画はやはりこれに抗議しようとする姿勢を一切見せず、日本人らしい忖度の重苦しい空気が蔓延するばかり。演芸を認めた段階では温情上官の志村喬やら三橋達也は、この小隊が観劇する終盤には画面に登場しなくなる。鉢合わせすれば批難に晒されざるを得ないため引っ込んでいただいた、という忖度のドラマツルギーな訳だ。これは卑怯な作劇ではないだろうか。

伴淳の身についた田舎芝居を延々揶揄うリアリズム演劇の押しつけが前進座のスタンスだったのかと思うと幻滅させられ、揶揄い続ける桂小金治は不愉快のレベル。軍隊は田舎町に科学を持ち込むのだというキノシタ『生きてゐる孫六』の思想が想起され、前進座OBはこの方針を積極展開している具合である。そしてそのわりに、クライマックスの演目が何で「瞼の母」なのかもよく判らない。

他もいろいろ判らず、従って何も面白くない。見処は中盤の最初の演劇披露の舞台で、三木のり平の乱入など愉しいのだが、他の場面は有島一郎のひとり漫才ほか全然笑えぬ。夕陽の入江で集団で歌われるラバウル小唄や、観劇して死んじゃう兵隊の件に至ってはほとんどコント。あまりにもベタで付き合い切れない。

(評価:★2)

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