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[コメント] 絶唱(1958/日)

日活スコープの丹精なモノクロで綴られた好篇。脚本は西河版(66)とほぼ同じで、もっぱら配役の差異。本当に病んでいそうなほど細いまだ子供の浅丘ルリ子は丸っちい和泉雅子より客観的には適役なんだろう。軍隊行っても丸坊主にしないは太い。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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昭和18年山陰、僕は自分で父と対決するんだと地主の息子の旭は叫び、村の読書会で労働者の若者に囲まれて君たちのように額に汗して働きたいと云う。父の柳永二郎は有名な科白を唸る「お前には一番悪いものが取りついた。思想じゃ。こいつばかりは金がモノを云わん」。旭は勘当されて浅丘と二人暮らし、大地主への昭和の子のレジスタンスは裸一貫と材木担ぎを始める。今の文学は都会のエゴばかりで労働を描かないと批判している(旭はその後、そんな映画に大量に出演することになるのだった)。

しかし、旭が戦地に行ったあと、浅丘はヨイトマケの綱引きとか石切り場のトロッコ押しとか結核病棟勤めとか(それぞれの美術が充実していてとても興味深い)、体を酷使して結核で死んじゃうことになる。すると上記の旭の裸一貫の挑戦は敗退に終わったとも取れる。それとも、戦争がなければ夫の裸一貫で道が切り拓けたのに、という含意だろうか。

最後に旭は浅丘の結婚式兼葬式で村方衆に、浅丘のような女を出さないために財産を使うことに決めたと語る。私の知識では農地解放との関係が不明なのだが、封建遺制、小作制からの解放をひとりで決めてしまう理想主義は敗戦直後のこの時代、リアルだったのかも知れない。それは裸一貫では限界があるという体験から至った、制度を変えなければいけないという認識によるものなのかも知れない。

序盤で浅丘と旭が参る鎮守の祠の美術がいい。鳥居は旭が屈まねば潜れないほど低いのがいい。「もったいない、若様」「若様って呼ぶな」なんて封建遺制のやり取りは、後代ではパロディのネタになったものだが、パロディに出来るように時代がなるまでには、こんな犠牲もあったのだと映画は語っている。浅丘は旭に何度も手紙を書いているが、彼女は字が書けたのだろうか、というのは疑問だった。

父親の柳が死んだら全てが好転し始めるのがすごい演出だった。両親もこれで気兼ねがなくなったと浅丘の見舞いに行くし、浅丘に旭は結婚することになったと嘘の伝言をする件は(和泉版では長かったが本作はあっさり通過された)犯人の吉原はやれ嬉しやと浅丘に謝る。法治でない人治の封建制とはこんなものなのだと主張して判りやすい。父がいい人間ならこんなことにはならかなったのだが、悪い人間が治める可能性があるから封建制は駄目なのだと。

新居の間借りの二階の物干し台、ふたつ並んで陽光を浴びる折り鶴のショットが素晴らしい。この障子を開け閉めした浅丘が唄う木挽き歌。しかし両親は村八分。母の山根寿子は浅丘について、自分が昼寝しているときに狐に見込まれて出来た魔性の娘と云われたと嘆いている。山村のエロの想像力はたくましいものだと驚かされる件だった。和泉版では母が地主制度への恨みを語る印象深い件があったが、本作の山根はあくまで受け身。これは俳優の特色を生かした処なのだろう。折り鶴二羽は十姉妹になり、戦死した友達と一緒に籠のなかで死んでしまう。

昼から酒呑む友人の高友子が感じいい。中途半端な役回りなのが残念。主演ふたりは何度も歌を唄うが、このとき必ず、キーの合わないような劇伴が重ねられて邪魔をするのが意味判らなかった。普通に歌を聴かせてほしかった。

(評価:★4)

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