[コメント] 義人呉鳳(1932/日)
日帝から眺められた『セデッィク・バレ』。呉鳳の偉業は日帝の宣伝に過ぎなかったと否定されているらしい。映画を観る限りは非暴力の立派な人に見える。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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首狩りはいかんと言葉で説得し、熱病が流行ると首狩りでなくて薬で治し、飢饉では私財を売り払って蕃社を救う(どれほど金持ちの公務員だという気もするが。彼は通訳)。
しかし首狩り(出草しゅっそうと呼ばれる)は先祖を喜ばせるという蕃社の固定観念は覆せない。首がないのに供物はどうするのだと聞かれて髑髏にしろと指示したりしている。そして髑髏がなくなったら再開していいのかと尋ねられ、許してしまう。終盤に向けての前振りで、ここは物語が出来過ぎでしゃきっとしない。
指定された獲物をしとめると呉鳳その人、「俺たちに教えてくださったのだ」と村人は改悛。まあ理想的な人物の捏造による懐柔プロパガンダだったのだろう。若い頃の呉鳳は雷蔵似。若い嫁貰いすぎだろう。
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