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[コメント] 肉体の悪魔(1947/仏)

戦争で引き裂かれる恋の話は多いが、本作はこの物語構造を挑発的にひっくり返し、欧州貴族社会の国民国家への敗北を嘆いている。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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第一次世界大戦。冒頭で「戦争に慣れちゃいけない」と戦時下の臨時病院の看護師に志願して気絶するミシュリーヌ・プレールを諫め、自らも軍の使役の穴掘りを自嘲するジェラール・フィリップ。ふたりはプレールの軍人の亭主がいないから浮気ができる。酒場で休戦協定のフランス国家のピアノ即興、みんな厳粛ななか、ふたりは関係がこれで終わりと悲しむ。

ラディゲの貴族的なダンディズムは、国民国家のお祭りを相対化しているのだろう。ラストの葬式、英米の国旗を持つ男に旗を掲げろとフィリップは云う。これは欧州貴族世界の国民国家への敗北をダイレクトに表している。ミシマの描くような本邦の戦前貴族とは歴史がまるで違うのだ。

プレールが約束の桟橋にいるのを見て、息子に恋の手ほどきをするフィリップの父は「女に冷たくされると後を追うが、愛されていると判ると簡単に別れられる」とフィリップに云う。こういう名言が原作の味なんだろう。フィリップは従い、桟橋で彼を待っている彼女を確認したうえで、逢わずに去る。父に連れられて傷心旅行(中盤と終盤の間に、この父は久々に再登場し、フィリップにその後の恋の進展を尋ねる。フィリップは答えられない。このとき絶望の劇伴が流れる。ここもいい)。

戻ると彼女は軍人と結婚している。再会して謝るとプレールは「私も桟橋にいかなかったの」と嘘をつく。同衾した夜に詰る「どうして桟橋に来なかったの? きたら結婚しなかったのに」。そして別れの場面で、このときのことを男は小説に擬して他人事として彼女に語る。女は「貴方らしいけど無意味だわ」と答える。本作はその無意味が全面展開したのだった。

彼女に子供ができて死別。メロドラマになりようもなく、イロニーの色合いが強い。第三者の影がないと愛は成り立たない、というのはプルーストの心理学だと教えられたが、ラディゲはそれを既に描いている。その線で考えれば、後半、プレールが結婚したからこそ、ふたりは愛し合うのだろう。

47年の本作は美しいモノクロで、同年の本邦映画と比べてリッチだ。他の仏映画もそうだっただろうか。河行く汽船の桟橋を何度も反復して舞台にするのがとても感じいいのだが、これは経費節減もあるのだろう。恋愛の失敗を予言する花束とか、セックス中にパンされる夜の焚火(彼女の死去で反復される)とかの作りは古風。プレールは日本の着物をネグリジェ代わりに羽織っている。空襲中に手巻きのSPレコードで踊っている。別れのディナーで「別れのときはグラスを割るんだ」と云ってそうしているのは、本邦の葬式の儀式が想起された。再見。ラストの旗の件だけよく覚えていた。ここはブニュエル風である。

(評価:★4)

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