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[コメント] 泥だらけの青春(1954/日)

当時アプレスターと叩かれた三國連太郎の自己パロディ敢行ではないか。筋は定型だが、動機も反省も語らない作劇はそう考えると凄味がある。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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三國の売れない役者時代が序盤紹介される。序盤の田舎芝居、競艇場でのエキストラ、映画館のフィルム運び(雨中を自転車で運搬するのが印象的。遅刻して「いつまでお客を待たせるんだ」と館主が怒っている。新作ラッシュの時代はこんなだったのだろうか)。それから周りに勧められて「新日本映画」のオーディションを受けて映画スターとして成功し、目黒に五百坪の土地買ってオープンカーを買い替え続け、給料アップの交渉のため出演を拒否して馘首される。

しかし、なぜ三國は増長したのか、という疑問は意味をなさないように思われる。彼は元から生活のために役者をしていたのだし、俳優の技術について無頓着なのは映画会社がそれを望んだからだし、贅沢な生活は社会のスターに対する要求だろうし、賃上げ要求はその維持のためだろう。三國がエキストラ時代からスターだった白狐と呼ばれる高杉早苗もフランスに行きたいとか会社に甘えているし。貧乏時代、乙羽信子は三國が好きだったが三國の方は何とも思っていなかったし(序盤に一緒に帰ろうと誘われても断っている)、ボロ下宿を立ち退くとき哀しんでいる乙羽にヨロシクなどと詰まらない声しかかけていない。

本作の彼は無自覚に流されたのだった。それを称して本作は泥だらけの青春と呼んでいることになる。冒頭の田舎芝居で三國が下手糞かつ熱心に演じていたのは「妖婦カルメン」なる演目(ストリップを相談されて団員は「カルメン裸になる」と自虐していた)。会社を解雇されて夜の雨のなか、宣伝カーが通り過ぎ、三國はチラシ塗れになる。このとき流れているのはカルメンのメロディだった。彼は後悔するのだろう。しかし何をどうやって後悔するのか、彼には判別できなかったように思われた。

面白いのは会社側の対応で、専務の三島雅夫が絶好調。新人のほうがギャラが安い、上手いレッテルを貼りさえすれば売り出せると嘯き、三國に「肉体の暴風」なるホンを用意し、主役に抜擢だ3千万円をキミに投資するのだと檄飛ばし、ゴネられれば代役用意のうえバッサリ切り、解雇云い渡す横で次の新人の歓迎会を執り行う。どこまで戯画でどこまで事実なのだろうか。

三國は50年に松竹入りしてデヴュー作『善魔』でブルーリボン新人賞。52年に東宝『戦国無頼』出演で松竹は解雇。54年に日活『泥だらけの青春』に出演して五社協定違反者第1号となる。55年日活専属、56年にフリー(Wikiより)。

相棒だった山内明は演劇研究会を開き、僕も俳優だと語り、映画の時代劇に進み、乙羽信子と結婚する。三國は披露宴で馘首を隠してお祝いを云ってすぐ去り、劇伴が結婚行進曲を奏でるなか、夜の壁に彼の影を大写しに流離わせて幕としている。乙羽の父でカストリ屋の親爺大町文夫の、エキストラ10年大部屋20年、尾上松五郎の斬られ役だったんだという回想が、本編との対比で優しい。最後にバーカウンター飛び越えて三國をぶん殴るバーテンダーの植村謙二郎がニヒルで印象的。

この店から乙羽が見上げると、渋谷の銀座線がビルの腹から出てくる処が見える。日活HPでは大和田小路と記されている。広い田圃のなかに建つ調布の日活撮影所も記録されている。54年建設であり、本作は9月公開だから第3期まである工事のうち1期完成時の外観である。三國が移籍を希望する東亞映画も撮影は同所なんだろう。映画の撮影風景は殆どなく、もっと見せてもらいたかった。応募5000人のニューフェイスの水着審査の模様があり、田村泰次郎本人が審査員として来ている。

菅井一郎第一回監督作品。彼は尊敬するミゾグチに死ねと云われて自殺しかけた(違ったかな)真面目な人という印象で、この辛い企画を選んだは意外に思われる。タイトルバックの折り畳み椅子の背中に「SUGAI」と描かれたカットが可愛くてとてもいい。伊福部節もいい。

(評価:★4)

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