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[コメント] サイン(2002/米)

幼稚さ。幼稚さゆえの「面白さ」に対する忠誠。古典の「子供」たる自覚。プロデューサーとしての有能さ。シャマランスピルバーグの歳の離れた弟だ。「真顔でギャグをかます」感覚も「笑い」において本質的かつますます現代的である。勿体ぶった薬局シーンの無意味ぶりが白眉。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







さて、さまざまな見方や評価を積極的に許しているという点が『サイン』の懐の深さ、とまでは云わないまでも多面性の証ではないかと思われるが、シャマランが本当に熱心なアメリカ映画のファンであるならば、この映画における彼の野心とは「いっさい拳銃を使わないこと」に尽きるように私には見える。拳銃を使わずに「映画」を成立させること、あるいは拳銃を登場させるためにキャラクタの職業に制限が加えられたり煩雑な物語上の手続きを踏まなければならないこと、多くの日本映画がそれらに四苦八苦し、ときに開き直ったりもする一方で、アメリカ映画は自由に拳銃と戯れることを許されてきた(その意味でもアメリカ映画は「映画」の楽園なのですが、その「自由に」が「無邪気に」や「怠惰に」にすり替わってしまう危険性も常にはらんでいます)。しかし『サイン』のアメリカ合衆国には拳銃などはじめから存在していないかのようだ。

この映画の宇宙人は水を致命的な弱点として持っているが、ホアキン・フェニックスによる木製バットのフル・スウィングからも相応のダメージを受けているのだから、物理的な衝撃に対しても万全の防備を誇っているわけでないことは明らかだ。それならば脳髄なり主要な臓器なりを拳銃で撃ち抜いてしまえばそれで終いだろう。その程度にこの宇宙人は「弱い」。しかしながら/それゆえにシャマランは拳銃を使わない。登場させない。排除している、とまで云ってもよい。それは彼が面白い銃撃戦を演出する困難を知っていたからかもしれないし、「水」と「フル・スウィング」の着想に固執したためかもしれない。いずれにせよ『サイン』のアメリカ合衆国に拳銃は存在しないのだ。あるいは、二〇〇二年制作の映画でありながら、ここにはまったく「携帯電話」が登場しないということを指摘してもよい。『サイン』に描かれるような非常事態において拳銃も携帯電話も登場しない(どころか、その存在が登場人物の脳裏にすら浮かばない)ことは、あの宇宙人のデザイン以上に非現実的なことではないだろうか。だが多くの観客はそれを「自然に」受け入れていたはずだ。

拳銃も携帯電話もこの映画の面白さにとってはマイナス要素になるという聡明な判断に従って、それらを排除した世界を成立させてしまう力。現代映画におけるシャマランの突出とは、そのような世界観の構築力ではないだろうか。

(評価:★4)

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