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[コメント] クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲(2001/日)

この映画におけるノスタルジー及びそれに関する描写については、私はさほど興味を抱かない。私にとってこれは「大人」と「子供」の関係性の物語であり、現在を生きる普通の家族の物語だ。そしてそれはきわめて具体的な映画言語で語られている。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画には「大人」と「子供」しか出ていないと云ってもよいのだが、たとえば「二十代の若者」といった年齢的には大人と呼ばれてしかるべきだが必ずしも子供を<守る>必要を持たない者はほとんど登場しない。ここでは「大人」とは絶対年齢の問題ではなく、「子供」を<守る>人がそう呼ばれるのであり、具体的には「親」と「幼稚園職員」がそれに当たる。同様に「子供」も絶対年齢とは関わりなく、<守られる>人がそのように呼ばれることになる。

さて、しんのすけら子供たちは大人が大人でなくなってしまうことに恐怖するのだが、その恐怖の正体とは大人たちが童心に帰ることというよりも、彼らが「子供を<守る>こと」を放棄してしまうことだと云うべきだろう。この映画が感動的なのは、本来<守られる>人である子供が<守る>人である大人を<守る>ために奮闘してみせるからだろうが、真に感動的なのはこの「<守る>と<守られる>の逆転」という云わば観念的な倒錯それ自体ではなく、その倒錯が「しんのすけが階段を駆け上る」等の具体的な運動として私たちの目の前に現れるからであろう。

あるいは次のように云ってもよい。この階段のシーンの時点では、既にひろしとみさえは正気に戻っているのだから、しんのすけが<守る>対象は「他の大人」あるいは「町」という抽象的たらざるをえないものである。ここでしんのすけの「駆け上る」という運動が私たちに示しているのは、<守る>という動詞の抽象性が「駆け上る」という動詞の具体性によって更新されてゆく「瞬間(の連続)」なのだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ぐ〜たらだんな

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